置かれた町の平安を求め、町のために祈る
2025年3月2日
エレミヤ29:4~7、使徒18:5~11
柳沢 美登里(宣教主事)
今日は一つの質問から主のみ言葉を思い巡らしたいと思います。「無難」とう言葉からどのようなことを連想されますか。安心?今の自分から程遠い状況?昭和の家庭・教育環境で、私は「無難が一番」と聞いて育ちました。海外に長期滞在して、それが無意識の日本人特有の見方だったと気づくようになりました。
今日の聖書では、イスラエルの民も宣教中のパウロも大嵐の中に置かれています。エレミヤ書には、イスラエルの民が神でないものを第一とする偶像礼拝に陥り、先祖から受け継いできた約束の地から追放され、大国アッシリアの囚人になったときの預言が記されます。慣れ親しんだすべてを失い、神が与えられた土地と一体だった、神の民としてのアイデンティティが風前の灯火になったのです。捕虜ですから生きるための食料も定かではない状況です。「無難」とは正反対のことが、ときに神の民一人一人の人生に起こると聖書は知らせます。人生の分岐点に置かれて最善を選んだつもりでも困難や災害に遭い、イスラエルの民のように神を軽んじた歩みから「こんなことが」という出来事に遭遇します。一方、新たなチャレンジに踏み出すなら、今までと違う状況に「難有り」はむしろ普通のことなのかもしれません。
神が導く聖書の物語を聞き続ける私たちは思いがけないことに出会ったとき、どのように考えるでしょうか。聖書は、すべてを治めて導いておられる神が許可された範囲内で物事が起こるのだと伝えます。そして、招詞のようにその後の展開は、人間には考えられない驚くべきことがしばしばあります。こうして、神に出会い日々を歩むと、この方への信頼が少しずつ増すように思うのです。
エレミヤは囚人として絶望的なイスラエルの人たちに「神からの言葉」を語ります。「家を建てて住むように。」先祖からの懐かしい土地が夢に出てくるのに!さらに「果樹園を造って、その実を食べなさい。」私は昨年から、被造物をお世話する目的で自然農業に関わっています。果樹はご存じのように、植えた年にすぐ実は成りません。木の成長を何年も待つしかないし、子孫を増やして長く異国に腰を落ち着けたら、約束の地の故郷を忘れ、他国人の土地で市民権もなく、土地なし民族になってしまう!不安が頂点に達したのではないでしょうか。
主はさらに命じました。「あなたがたを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたがたにも平安があるのだから。」故郷に戻れない!目先の計算からは疑いさえ湧いてきます。けれども、この導きと言葉こそ、聖書の神を信頼して従う民の最高の恵みの一つだと気づかされるのです。この状態になって初めて神の驚くべきご性質を体験する特権に与れるからです。小さい世界にしがみついて安心したい者に、ご自身の壮大さを体験させてくださろうとするのです。なぜなら、この異国人の土地も究極的に神が統治し、異国人にご自分の恵みをあふれるばかりに表されたいからです。この神は途方もなく大きな恵みの方だと信じているか、とチャレンジされたのです。信じる者の祈りを神は決して軽くは扱われません。絶望的な状況で、この方が究極の主権を握っておられるという信仰から見る現実に立つとき「この地に置かれたのは、神の深い意味があるのだ」と、信仰者としての主体性を取り戻していくのです。「難有り」の不安で動けなくなりそうなとき、神は大いなるご自分を体験させようと「導く」ご自分を現わされるのです。イエス様に出会い、聖書の神に従う私たちにとって最も大切なことは、神の許可なくして起こることは何もないという確信に立つことです。被害者気分に陥るのでなく、その状況に置かれた意味を神に聞き続け、自分が願ったのでなくても、その地を自分が選んだかのように考え最善をなすという主体的な歩みを続けるのです。神への信頼は、自分と家族のためだけでなく、町全体のために平安を祈るという行動へと展開していきます。「とき」も含めた神の深遠なご計画を信じて、そのみ手に委ねきる姿勢を養うものでした。
エレミヤの預言から約200年後、イスラエルの民はエルサレムの都に帰還し、さらに約400年後、救い主イエス様がイスラエルに誕生されました。使徒言行録18章には、復活したイエス様に出会ったパウロが異邦人宣教の召しを受けて出向いたギリシャのコリントでの出来事が記されます。その宣教の出だしにパウロは罵りという否定的状況に直面しました。人間的に見れば「無理」と思えます。けれども、すべてに主権を持ち、時と場所を備える神が宣教を進めておられたのです。人間的反対のなか、ある晩、主はパウロに幻を通して語られました。「恐れるな。語り続けよ。私はあなたと共にいる。この町には私の民が大勢いるから。」神様は一見、反対者が多いコリントの町でそう語られたのです。自分のやり方を脇に置き、神様に聞き祈り求めるとき、時と場所、声をかけるべき人ややり方が示されていきます。12月、長老の皆さまからこの地域の様子を伺いました。今回のメッセージについて祈る中、このみ言葉が思い起こされました。東小金井教会は困難な状況だと思える中、生ける神は働いておられます。すでに皆さまを通して神は種を蒔かれ、新たな方々をこの地や教会に送られています。主は主のときにその方々に働いてくださいます。主が治めておられるという平安が具体的に小金井の町で表されるように求め、ぜひ、町のために祈り続けてください。聖書の言葉に押し出される歩みが、主の宣教の業に参加することです。町の平安を祈る者として置いて下さり、ご自分の驚くべき業を用意され、私たちを用いようとされる主なる神を見上げ、この一週間も主に期待して歩みたいと思います。お祈りします。