カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の贈り物

    2025年3月9日
    申命記30:15~20、ヤコブの手紙1:12~18
    関 伸子牧師

     3月5日、灰の水曜日から受難節が始まりました。教会は、もっとも大切な祭としてキリスト復活祭を祝います。受難節とは、キリスト復活祭に向けて準備する40日の日々のことです。わたしたちはいつでも主イエスの死と復活を想起し続けているのですけれども、この期間には主イエスのご受難を特に深く心に留めます。

     先ほどお読みしましたヤコブの手紙は冒頭で、「私のきょうだいたち、さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されていると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています」(2,3節)と、著者は突然、試練・誘惑について語ります。ところが12節は、「マカリオス」という言葉から始まります。主イエスの山上の説教で「幸いな者」の祝福を思い起こさせます。「神を愛する人々」にとって、試練は信仰を確かなものとすると言う意味で価値のあるものとなることが語られています。信仰のある者にとって、試練とは何でしょう。それは、幸いな者になるためにも必要なものなのではないでしょうか。

     試練を耐え忍ぶ人は「命の冠」を得る。信仰の忍耐には、命の冠がある。この神の新しい「命の冠」から見るなら、この世に無価値な人はなく、無意味な努力というものはありません。試練や誘惑はできることならばさけたいと思うのが人の常なる思いでしょう。しかし、人生の歩みのなかでこれを避けようのない場合があります。私たちはそういうときに、信仰をもって生きているのにどうしてこのようなことになるのか、と否定的な思いになります。

     「試練」という言葉は、試み、誘惑の両方の意味を持ちます。原語のギリシア語では同じ言葉です。「ペイラスモス」、日本語の聖書では、場合に応じて、「試練」と「誘惑」と使い分けています。聖書においては、「試練」や「誘惑」といった苦難に耐えるところに一つの意味を見出そうとする考え方があります。問題は、苦難を具体的に自分の身に置いて体験するかどうかに関わってきます。実際に苦しんだことにより、ようやく考え始めてたどり着くことのできる真実の発見があります。自ら傷を受けたからこそ、真剣になって受け止めようとすることのできる真実もあります。そこには今まで考えることすらなかった隠された知恵があることに気づかせられるのです。それゆえ、試練には「会う」と言います。つまり、道で思わぬ人に出会うように、ある時、思わぬ時に、試練に出会うのです。試練は、向こうからやってくるとも言えます。

     申命記に記されているように、常に私たちの前には「命と幸い、死と災い」(30:15)が置かれています。利己的な欲望にがんじがらめとなって滅び去るのではなく、神によって生かされ、神のもとで互いに生かし合う生を選び取らなければなりません。すなわち、主が引用された聖句、「あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。主こそあなたの命であり、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地であなたは長く生きることができる。」(申命記30:20)の基となることを、私たちは忘れてはならないのです。

     ヤコブは「罪」や「死」について厳しい言葉を述べた後に、特に16節で愛をこめて、同じ神を父とする信仰上のきょうだいたちに語りかけています。「思い違いをしてはなりません」は「惑わされてはならない」と訳すこともできる言葉です。この事態の背後に悪魔を想定するなら、言わば悪魔の計略によってそうされることが考えられます。この「惑わすプラナオー)」という表現から、「惑星(プラネット)」という英語が造られました。ヤコブは「道」や「旅」や競争に言及していることを考慮すると、道を歩いたり、競争で走ったりする時のことをきょうだいたちに想起させて、進むべき方向から迷い出たりしないようにと、注意を促しているのでしょう。

     ヤコブは、神の贈り物は人を誘惑するどころか、どんな場合でも良いものであると主張しています。一切の事物の変化と、変化するこの世のもろもろの変容のただ中にあっても、神の贈り物は決して変わることがありません。古代世界では、初穂は神にささげるのが決まりでした。それは神への感謝に満ちた供え物としてささげられました。それらは神のものだったからです。

     「御父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んでくださいました。それは、私たちをいわば造られた者の初穂とするためです」(18節)。「真理の言葉」とは、元々はイスラエルの民を生み出した律法であり、今やキリスト者を生み出した福音です。「生んでくださった」とは、母体に宿した赤子をそこから生み出すことですから、「父」が「生み出す」という表現は、読者に強い印象を与える言葉であると思います。ここは、新約聖書において神の女性的イメージを最も顕著に描いている箇所の一つではないでしょうか。

     生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことは不可能ですけれども、新しく生まれ変わって、神の贈り物を受け取り、神のものになる時、わたしたちは造られたものの初穂となることができる。この世において現在、真の初穂であるキリストに倣って将来の天の生活を証しする一人ひとりとしてここから生活のただ中に送り出されていきましょう。祈ります。