カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • こころ開かれて

    2025年6月1日
    詩編93:1~5、ルカ24:44~49
    関 伸子_牧師

     先ほどお読みした、ルカによる福音書第24章44節以下で、その日一日の出来事の終わりである静かな夜更けに、主イエスが弟子たちにみ言葉を語り続けます。主が弟子たちに求めたこと、それは、これからなお、上から霊の力を授けられる、そのときまで、都に留まって、祈り、待ち続けなさいということでした。こうして新しい時代を迎えるための、しばらくの備えの時が始まるのです。

     主は、ご自分の昇天を述べる前に、弟子たちの担うべき使命を述べています。弟子が証しすべき事柄は、キリストの受難と復活だけではありません。罪の赦しを得させる悔い改め宣べ伝えられていることも証しすべきことのひとつです。「その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる」(47節)とあるように、新しい命とは、私の身代わりに十字架で神の裁きを受け、私が神に向かって生きるために復活させられ、「あなたがたに平和がある」と言ってくださる主イエスとの出会いによって与えられるのです。

     「エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる」。ユダヤ人だけではなくて、どの国の人にも、主イエス・キリストの福音が伝えられるようになる」と、イエスが言われました。これは、当時の弟子たちにとって、どれほど驚くべき言葉であったことでしょう。この主の言葉は、弟子たちによって、この時は、まだ十分に悟られてはいませんでした。なぜなら、この後、霊が降る喜びの日がきて、弟子たちの伝道が始まりますが、初めは、ユダヤ人の間だけでしか伝道しませんでした。やがてパウロが登場して、ギリシア人にも、誰にでも、福音は福音だと言い始めたときに、そんなことが許されるかと、ここにいた弟子たちが、それに反論して、大会議をエルサレムで開かなければならなくなったほどです。しかし教会、その教会のこころは、だんだんと門を開いていきます。ユダヤ人であるという自負を、なかなかペトロたちも拭い去ることができませんでした。自分のことに気を取られていたのです。そして、主イエスは、その弟子たちの頑ななこころに向かって言われます。聖書の急所はここだと。どこでしょう。イエスご自身が死んで、甦えらされること。そして、その主の事実に基づいて、罪の赦しが与えられる。罪の赦しを得るために、人びとのこころに悔い改めが起こる。こころが変わるということが起こる。聖書に書かれていることは、そこに、集中するのだと言われるのです。

     それでは、だれが悔い改めを宣べ伝えるのでしょうか。主イエスではありません。弟子たちでもイエスでもないとすれば、残るのは神でしょう。神がイエスの受難と復活をもとに悔い改めを呼びかけています。イザヤ書第44章21,22節に次のようにあります。「ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。私はあなたの背きの罪を雲のように 罪を霧のようにかき消した。私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ」。私たちが戻れるのはまず神の働きがあってのことです。イエスの十字架によって神が、罪を霧のように吹き払い、罪の赦しを得る悔い改めを宣べ伝えさせるのです。

     福音書記者ルカは、手を拡げながら天に昇っていくイエスの姿を描き出します。使徒たちは天にあるキリストを見上げ続けています。そのように、すべての信仰者が天を見上げるということは、イエス・キリストがこの世界のすべての人々の救い主となられたことを私たちに物語っているように思われます。

     『讃美歌21』の413番「キリストの腕は」は、もとの歌詞では「キリストから挙げられた時、その腕は、違いを超えてすべての人を受け入れるために拡げられた」と歌いだされています。キリストが受け入れてくださったように私たちも互いに受け入れ合おうではないか、と訴える詩です。しかし和解の訴えだけではなく、その時のブライアン・レン(作詞者)には怒りがあったと語っています。(『新しい賛美歌作家たち』横坂康彦著、日本基督教団出版局、1999年)。「キリストが受け入れてくださっているのに、なぜ私たちは・・・」という思いだったのでしょう。このレンの怒りは大切です。十字架なしには神と私の和解はあり得ず、キリストにならって私が他者と和解することは、私も自分の十字架を負ってキリストに従うことなしにはあり得ません。第2節は「東西南北ひとつとなる」と詠っています。原詞では単に「東と西」だけです。英語では(おそらくヨーロッパの言葉はすべて)「東西」で全世界を示します。そもそもヨーロッパの歴史の始まりが「オリエント」(東)と「オクシデント」(西)の対立から始まり、以後ローマ帝国も「東ローマ」と「西ローマ」に分かれ、教会も「東方教会」と「西方教会」に分裂しました。しかし、現在ではキリスト者が一番多いのはアフリカと南米ですから、東と西だけでは困ります。「東西南北」という日本語にはレンも感心していると書かれていました。

     イエスが弟子たちを祝福しながら、天へと挙げられてゆくのを目撃した弟子たちは、その姿を「伏し拝み」、「大喜びで」エルサレムに帰ります。天の祝福を受けたことが、真の礼拝と心を満たす喜びを生じさせます。喜びの大きさは、天にある方の偉大さを反映しています。それは、罪が赦され、救いと祝福が与えられた喜びです。この喜びに包まれた弟子たちは神をほめたたえながら、神殿で父の約束を待ち望みます。イエスの昇天によって天と地が結び合わされ、天からの祝福と地からの賛美が交差します。今や神の愛を賛美して生きることができるのです。主イエスは、私たちにこの幸いを生きてほしいと願っておられます。これから私たちは、主の証し人として立ちます。自分もまた、こころを開き続けて、神がこころを開いてくださることを自ら証しする生活を始めることができるのです。お祈りをいたします。