カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 汚れはどこから来るのか

    2025年11月2日
    創世記4:1~11、マルコによる福音書7:14~23
    関 伸子_牧師

     マルコによる福音書第7章において、ファリサイ派の人たちが主イエスを問いつめたのは、弟子たちが「汚れた手」でパンを食べ始めたからです。私たちにとって、「汚れた手」といえば、洗わない手のことであるのは自明ですが、マルコはわざわざ「つまり洗わない手」と言い換えています。このような説明が必要だったのは、「汚れた」と訳されたギリシア語〈コイノス〉には「汚れた」という意味がないので、ギリシア語の読者のためには、「洗わない手」と言い直さなければならなかったからです。

     この語はギリシア語そのものとしては「共通の」とか「世俗の」を意味しますが、ユダヤ人にとって「世俗」は「汚れ」にほかなりません。そこで、この語は「汚れた」といった意味合いを持つことになりました。ですから、食事の前に手を洗うのは衛生上の配慮ではないのです。むしろ祭儀のための清浄規定を日常生活の場にまで広げた結果、食事だけでなく、3節から4節に書かれているように、あらゆる場面において祭儀的な「清さ」を保とうと努力していたからです。

     ここで「言い伝え」と訳されたギリシア語は、モーセによる神の掟(トーラー)のように書き留められたたものではなく、口で語り継がれた伝承であり、モーセのおきてを現実社会に適応させるために、どのように実践すべきかを示した実例集でした。完璧主義者の態度は、「昔の人の言い伝え」を重視する姿勢から生じます。

     しかし、主イエスはそれを「人間の言い伝え」(8節)にすぎないとして、モーセの掟と同等性をきっぱり否定しました。
     神の造られたものでそれ自体汚れたものなどないのです。むしろ「中から、つまり人間の心から」来るものが人を汚すのです。主イエスによれば、人の言葉であり、その根っこにあるそれぞれの心です。預言者イザヤは「この民はで近づき 唇で私を敬うが その心は私から遠く離れている」(イザヤ29:13b)と言います。箴言第4章23節には「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」と記されています。旧約の時代から、心のありかが大切にされてきたのです。宗教には形式がありますし、その形が伝え、守るものがあるのも事実です。人は形から入っていくということがあるからです。しかし、それが口先や形だけに終始していくとき、置き去りにされているのは本来、あなた全体を支えているはずの心ではないか、と主は問われるのです。

     一言で言えば、「心」とは神との出会いの場、交わりの場にほかならないのです。この心を育てることは容易なことではありません。しかし、何よりも大切なことは、そうしたまさに心の次元の存在すること、そしてそれが人を汚しもするし、同時に、人を人たらしめ、その人らしい豊かな人生を可能にするものでもあることを告げ知らせることでしょう。この人の心を咬みは、神を愛し、人を愛するようにとつくられました。神を愛することは神が愛されたものを愛することでもあります。すなわち、他者を尊敬し愛することから神を愛することは分離されてはならないのです。神を愛し人を愛することにおいて人の心ははじめて豊かに大きく育つものだと確信しています。

     最後に、18節で弟子たちの無理解が叱責されていることに触れておきたいと思います。それはどういうことでしょうか。次のように考えることはできないでしょうか。イエスの弟子たちは、全員が師にならって食前にとくに手を洗うことをしませんでしたが、清めの規定から自由になっていた、というわけではありませんでした。いぜんとして「言い伝え」に従っている者たちもいたのです。イエスはその弟子たちも受け入れていました。しかしイエスはいつまでもそれでいいとは考えておられなかったのではないか。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか」。これは相当きつい言い方ですが、「あなたがたも」というのはあなたがたこそそうであってはならない、ということでしょう。

     マルコによる福音書第7章24節以下には、異邦の地ティルス(ツロ)におけるイエスの異邦人伝道が記されています。シリア・フェニキア生まれの異邦の女の物語です。とすると、第7章15節の食物規定の廃止は、第7章24節以下の異邦人伝道を始めて可能にするのです。主イエスの食物規定の廃止は、原詩教会時代の異邦人伝道に道を開きました。食物規定がユダヤ人と異邦人との交わりを妨げていたからです。このように、イエスによる食物規定の廃止は、マルコによる福音書において、とくに重要な意味を持っています。これによって、イエスは徴税人や罪人との食事、ユダヤ人と異邦人との交わり、さらに異邦人伝道を可能にしたからです。主イエスの生き方、考え方には、このように、ユダヤを越えたものがあったのです。

     おそらくわたしたちもそうでしょう。キリスト者こそ迷信、偏見や差別から自由でなければなりません。この新しい心をわたしたちは主イエスによって与えられました。この心は自由の心、暖かい心です。この自由と愛の心においてわたしたちはイエス・キリストに従う道を歩んで行きたいと思います。イエスに「神の掟を聞かず、人間の言い伝えを固く守っている」と批判されないためには、神の言葉に聞くことが最も大事なことです。礼拝に来た時に、私たちがまずするのは、神の言葉に既に捕らえられている自分自身に立ち帰り、その自分自身を受け入れることだ、と言っていいと思います。それゆえに、ここにおいて行われる礼拝は、私たちのまことに喜ばしい祭りとなるのです。お祈りをいたします。