滅びを恐れず
2025年11月30日
イザヤ書51:4~11、マルコによる福音書13:28~32
関 伸子_牧師
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)。この箇所の中心になる主イエスの力強い宣言の言葉です。興味深いことは、主イエスが「私は決して滅びない」と言われているのではなく「私の言葉は決して滅びない」と言われていることです。滅びることのないキリストの言葉にだけ生きている教会においてこの言葉を聞く時、そこに光が射してきます。「私の言葉は滅びない」と書いたときに、マルコによる福音書の記者は、私が書いているこの言葉は普遍のもの、永遠のものだということをどんなに喜びに溢れて書いたことでしょう。
もともと主の言葉はなぜここにこのように記されたかというと、この第13章の初め、壮大なエルサレムの神殿を見ながら弟子たちが、先生、見てください、この立派さをと言った時に、主イエスが、この神殿も過ぎ行くものだとおっしゃったところから始まります。そこで弟子たちは驚いて、この神殿さえも崩れるようなことは、いったい、いつ起こるのですか、と問い質した時に、主イエスの長い言葉がここで語っれ多のです。苦しみの時、悲しみの時、滅びに直面する時が来る。しかし、それらはすべて世の終わりそのものではない。人の子が来る時がある。それが真実の最後の時である。そしていちじくの木から教えを学びなさいと語り始められたのです。
かつて主イエスはいちじくの木を枯らしたことがありますが、それは十分な根を持たない木を枯らす義の太陽であるイエスが登場したことを表していました。時は冬、苦しみが冬に怒らないようにと主イエスは祈るようにお求めになりました。しかし、冬に苦しみが起きてしまう。あるいは冬のような苦しみが起きる。ユダヤの冬は雨の季節だそうです。わたしたちも冷たい雨が降るとどうも礼拝に行きにくくなります。そのような寒い雨の季節に、わたしたちは春を待ち、夏を待ちます。ユダヤの人びとの春は、ごく短いもののようで、ある書物の表現ですと、春はたったひと晩、一夜が過ぎるともう春ではなくて夏になっているほど、春は短いと書いてあります。だからここではむしろ春を通り過ぎて夏が近づいたことがわかるのだと主イエスは言われるのです。またある人は、夏は既に実りの季節、喜びの季節、力みなぎる季節だと書いています。ここで主イエスは、天地は滅びるのだと断言しながら、しかも、喜びの季節が来ることを冬の季節の間に知るがよい、とそう言われたのです。
「滅びる」は「過ぎ行く」、「過ぎ去る」と訳すこともできかす。「滅びる」だけでなく「過ぎ行く」と言う言葉で受け止めることがこのテキストの理解を助けるのではないでしょうか。