カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 喜びの始まり

    2025年12月14日
    イザヤ40:1~11、マルコによる福音書1:1~8
    関 伸子_牧師

     待降節第3主日を迎えました。3本目のローズ色の蝋燭に火を灯して主イエスのご降誕を待ち望みます。本日与えられているマルコによる福音書第1章1節は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出します。ここから新しい出来事が始まる。「福音の初め」、「福音」とは、「喜びのおとずれ」です。

     クリスマスは、まさに神がこの地上に来られたことを喜び祝った出来事です。マルコによる福音書が書かれた当時のローマ帝国では、戦いに勝ったときに伝令によって知らされた「福音=よい知らせ」でした。マルコはその言葉を、世界の人々にとっての喜びの叫びとして用いました。「あなたも神に愛されている者としての生が始まる、いや、すでに始まっているのだ!」。その「よい知らせ」はイエス・キリスト御自身のことです。

     みなさんは「喜び」と言うからには、どんなに美しい風景やきれいな音楽が聞こえてくるかと思うのではないでしょうか。ところが、最初に出てくるのは「荒れ野」です。けれども、「荒れ野」は聖書で、大変重要な役割をもっています。イスラエルは40年「荒れ野」をさまよい、ついに約束の地に着きました。また新約聖書では、イエスは荒れ野で40日、断食し、悪魔の誘惑に遭われました。私たちの人生にも荒れ野があると思います。

     私たちの教会も昨年宣教60周年を喜び、礼拝の後の祝会で近隣の教会の方たちと共に「ハレルヤ・コーラス」を高らかに歌い祝いました。しかし、コロナ禍を過ぎて礼拝堂で共に礼拝をささげてきた方たちが天に召され、自宅療養中の友たちが増え、ライブ配信や録画視聴で礼拝をささげるようになり、今後の教会はどうなるのだろうと心配になります。

     2節以降、預言者イザヤの書からの引用から始まります。預言者の伝統を受け継ぐ者として、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れます。彼はらくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。洗礼者ヨハネの働きは旧約の預言者イザヤによって伝えられます。預言者エリヤの姿が重なります。そこに与えられるものにのみ拠って、神から与えられたものとして受け止める。そのような生き方へと帰ること、立ち戻ることこそが、彼のその洗礼によって示そうとしている「悔い改め」なのです。ヨハネはユダヤの荒れ野に現れて、人々を罪の赦しへと招き、悔い改めを求めました。

     私たちは「罪」というと、犯罪か、道徳的な問題を抱えているのかと考えます。しかし、聖書で語られる「罪」は本来「離れる」という言葉からきています。神に愛されている本来の自分の姿から離れている姿。それが罪なのです。ヘブライ語のもともとの意味は「展開する、振り向く」、心の方向転換です。全身で振り返ること、つまり生きる方向が根本的に変えられることが「悔い改め」です。

     ヨハネは、しかし、そこでひとりではありませんでした。「そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5節)。洗礼を受ける人はヨルダン川の水に身をひたしました。洗礼を受けたいという人が、ぞくぞくとやってきて、まるでユダヤの国中の人が集まったように思われました。それほど、ヨハネの評判は良かったのです。

     ヨハネは罪の悔い改めの洗礼を説いただけでなく、メシアの到来も預言しました。(7b-8節)。「力のある」というのは、「聖霊でバプテスマを授かる」方のことです。ヨハネは「その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。旅人を迎えるとき、靴のひもを解き、その足を洗う役目を果たすのは、その家の最下級の雇い人と言われています。その方にくらべれば、ヨハネ自身がその「靴のひもを解く値打ちもない」と自ら言っているのです。イエスさまの前に小さくなり、十字架の前にひざまずいて、自らほんとうの悔い改めを教えたのです。主イエスは神の子ですから高いところにいるにふさわしいお方です。しかし、主イエスは、私たちと同じように洗礼を受ける者として登場されました。

     主イエスご自身がまずその聖霊の力に満たされます。その時、「水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえてきた」(10-11節)。主イエスご自身が、この体験を何度も弟子たちに語ってくださったことでしょう。

     マルコは、第15章33節以下に、主イエスの死について語り、まず「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、まさに暗黒のなかで主イエスが死なれた姿を描きました。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。主イエスが地上の生涯を始められたときに天が裂け、その生涯の終わりにおいて神殿の幕が避けたのです。ただ天が裂けただけではありません。もう神殿もいらなくなった。どこででも、いつでも、誰もが神さまにお会いする道が開かれたのです。そしてこの十字架の主に向かい合った百人隊長がこう叫びました。「まことに、この人は神の子だった」。バプテスマをお受けになった主がお聞きになった天からの声に応ずる、地からの声です。しかも、この声を発したのは異邦人でした。マルコは、この神の子イエスの十字架に至る道を、自ら「この方こそ神の子」という信仰の心を込めて今語り始めるのです。

     イエス・キリストの福音の初め。そこには長い時代の人々の祈りと苦闘があったのです。わたしたちもバトンを受け取っています。福音書を読み始めて、イエス・キリストとの出会いが始まる。そこからもたらされる喜びの訪れを共に聞き、主イエスのご降誕を待ち望む日々に祝福が豊かにありますように。お祈りをいたします。