カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 希望をもって

    2026年1月4日
    詩編126:1~6、フィリピ3:13~14
    関 伸子_牧師

     新年おめでとうございます。今朝は2026年標語聖句である詩編第126編5節を含む詩編第126編の御言葉に聴きたいと思います。この詩編は「都に上る歌」の歌集の中の第7番目のものです。シオン(イスラエル)の復興を思い起こし、主の民の回復を求めてエルサレムにやって来た巡礼者たちの声です。

     「主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき 私たちは夢を見ている人のようになった」(1節b)。エルサレムで人々が再会する最も重要な帰郷の時は祭りの時でした。その時、神が人々に力をもって臨みました。シオンによって象徴される全イスラエルの運命が好転し始めます。50年以上にわたる苦難の歴史に終止符が打たれました。散り散りになっていた家族がつぎつぎと戻ってきます。「夢を見ている人のようになった」とは、人間的には不可能であった捕囚からの解放がペルシャ王クロスによって宣言されたからです。イスラエルの人々はエジプトでの奴隷生活、バビロニアでの捕囚からイスラエルの民を取り戻されたことを再び確認し合いました。神のなさった返還の業はありえないような奇跡でした。その奇跡が起こり、人々の笑いと歓喜、賛美の歌が伝わっています。

     詩編作者は続けて「主よ、ネゲブの川が流れるように 私たちの繁栄を再びもたらしてください」(4節)と祈ります。捕囚の民が大勢、パレスチナに帰還することを祈り、期待するのです。「ネゲブ」は砂漠に近いと言われています。そこに流れている川は、夏季には一滴の水もない枯渇した川床ですけれども、秋の雨の頃には濁流となって流れます。預言者イザヤが歌ったように、「荒れ野に水が 砂漠にも流れが湧き出る」(イザヤ35:6)とはまさにこのことです。一年のほとんどは太陽に照りつけられて乾ききっていますが、突然の豪雨は激流となって砂漠を潤し、やがていっせいに花を咲かせます。

     詩編作者はこのような再生を種蒔きと刈入れとに譬えて歌います。「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる」(5節)。収穫の前に種蒔きがあり、喜びの前に涙があるという教訓が述べられます。コヘレトが「あなたのパンを水面(みなも)に投げよ。月日が過ぎれば、それを見出すからである」(コヘレト11:1)と言ったのも、同じ心境でしょう。

     2025年6月以降、中会の運営委員会や牧師会から各教会・牧師達に今後の宣教に関するアンケートが出され、回答するために教会の現在とこれからのことを考えると、コロナ禍後の礼拝出席者数や会計が厳しいことを実感しました。そこで、この御言葉を思い巡らしていると、委ねられていることを忠実に果たすなら必ず報われる、正しく使命を遂行するなら結果がともなうという励ましにも聞こえます。それにしても涙があるのです。種蒔く者には多少の不安があっても、期待して畑に出て行きます。種入れをかかえ、実りの時を想像して種を蒔くのではないでしょうか。しかし、ここに、「泣きながら」とあります。蒔く人が過去に経験した現実があまりにも険しいものだったのか。辛い状況のなかで、なお出かけて行かなければならなかったのか。一生懸命に働いても時には不安になり、期待が裏切られることもあります。それでも、この農夫のように声をあげ、歌えるか。わたしたちに問われています。

     農夫は地に立ち、種を蒔きます。種蒔きの際の悲しみは、刈り入れの際に大いなる喜びに変わる。苦しくても種を蒔き、悲しくとも畑を耕す。その労苦と勤労は決して空しくは終わりません。この詩編作者は刈り入れの時に束を抱えること、そして、この人の全てを支配される主なる神を知っているのです。信仰によって神の力が働き出すことをひたすら待つのです。
    このひたすら待つ詩編作者とは対照的に、使徒パウロはキリストによって「捕らえられた」者として、「捕らえようと」して追い求めます。キリスト者は今も完成しておらず、「目標を目指して追い求める」人だからです。ですから、キリストとその復活の力を知って、その苦しみを共にすることになります(フィリピ3:10)。

     キリスト者とはすでに完成したのではなく、「完成を目指してひたすら走る人」です。それゆえにパウロは、「きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13-14)と語るのです。

     聖書の中で言っている前の方というのは、少なくとも神の方角だということは間違いがないことです。神のお喜びになる人生を歩むことが、実は前に向かって進んでいくということだと思います。成功、不成功を言えば、それは自分の目指した目的に達することができたということではなくて、神が喜んでくださる生活に自分は歩いて行くことができ、自分も本当に安心することができるということではないでしょうか。いつまでも、神がキリストによってくださるご褒美を目指して、後ろのものを忘れ前のものに向かって、激しく進んでいく。それは壮烈な競争であるかもしれません。しかし、人との競争ではなくて、自分の罪との競争であり、それに勝つ生活です。また、「今飢えている人々は、幸いである あなたがたは満たされる」(ルカ6:21)という主イエスの言葉を思い起こします。今は確かに恵みの日です。それ故に、私たちは、神の園で実りを信じて、日々、誠実に福音の種を蒔き続けるのです。

     この希望をもって、今後の教会のことを祈りつつ、私たちに託された善き業に励み、そのように歩む者たちは「主が私たちのためになされた大いなる業」の喜びへと入れられることを望みとして歩んでいきたいと思います。祈りをいたします。