主の恵みの歩みの始まり
2026年1月11日
出エジプト14:15~22、マルコ1:9~11
関 伸子_牧師
「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で福音書を書き出したマルコは、直ちに、福音の核心に触れる出来事を語り出します。ガリラヤのナザレで、ひとりの村民として生活しておられた主イエスを、そこから呼び出し、メシアとしての生涯へと歩み出させた出来事は、洗礼者ヨハネの登場であり、多くのユダヤ人たちが、続々と彼のもとに来て、洗礼を受けている、という知らせでした。
村人のひとりとして生活しておられた間にもメシアとして立つべき日が来ることを知っておられたであろう主イエスにとって、神の召しが、いつ、どのような形で来るか、ということは、決定的なことであったに違いありません。そして主イエスが「その時」の到来を、ヨハネの洗礼の中にご覧になった、ということは、私たちにとっても心惹かれる事実です。
この洗礼は「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」です。すなわち、ここで問題になっているのは「罪の赦し」です。罪とは、的外れのことです。ある調査によると、日本人の80パーセント以上が、自分は何の信仰も持っていないし、そのようなものは必要ない、と考えている、ということです。その中の多くが、素朴に科学を信じていて、だから信仰のような、非化学的なものには興味がない、ということです。しかし、そういうあり方自体が、既に破綻しているのではないかと思います。というのは、多くの人が、人が死んでから行く「天国」なるものを信じていて、特に子どもや若い人が死んだときには、死者に向かって「天国で楽しく暮らしてください」というようなことが言われるからです。そういう風潮に対して誰ひとり天国などないと言う者がいません。それができないのは、死というものときちんと向き合うことができないからです。だから死んだ人が行くという天国を考えだして慰めにしようとするのです。だから、日本人においても、なお罪が問題なのです。的外れが問題なのです。
神を正しく神とすることなくして、慰めも安らぎもありえません。そしてそのような生き方へと人生を転換するのが、悔い改めです。ヨハネが宣べ伝えたのは、人々を、この根源的な的外れから解放する、悔い改めの洗礼でした。主イエスは、その知らせを受けてナザレの村をお出になりました。そしてヨハネから洗礼をお受けになったのです。
9節冒頭に「その頃」とあります。これは9節以後の出来事をそれ以前の出来事から分けるしるしです。ここではイエスの洗礼が語られます。続く10節から11節には、イエスが水の中から上がると、天が裂けて、聖霊と天からの声が下ったことが語られます。これは誰の目にも見ることのできた客観的出来事だったのでしょうか。それとも主イエスの見た幻だったのでしょうか。そこでこの箇所を注意深く読み直すと、マルコは群衆の存在に全く触れていないことに気づきます。
「そしてすぐ、水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった」(10節) 。ここの主動詞は「御覧になった」であって、その主語は間違いなくイエスです。ご自身がまず聖霊の力で満たされるのです。主御自身がこの体験を何度も弟子たちに語ってくださったことでしょう。天が今裂かれつつあるのを御覧になったのです。イスラエルの人びとの歴史はまことに暗澹たるものでした。黒雲に閉ざされたままであり、天が見えなかったのです。神が見えず、そのみわざが見えないのです。だから、神よ、どうぞ今その天を開いてここに来て、山々が揺れ動くようなみわざを行ってくださいという祈りがここにあるのです。これは福音書記者マルコが、主イエスだけが見た幻と理解していたと言えそうです。
そして、今天が裂けて聖霊が鳩のようにくだり、天から、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が聞こえました。「天が裂ける」は神の介入など出来事の重大さを表す表現です。これはイザヤ書第63章19節「私たちははるか昔から あなたに統治されない者 あなたの名で呼ばれない者となっています。あなたが天を裂いて降りて来てくださったなら 山々は御前に揺れ動くでしょうに」を思い出させます。マルコにとって神の介入を待つべき時は終わったのです。霊が鳩のように降り、新たな時代は開かれました。
この福音書が書かれた当時、地中海世界を支配していたのはローマでした。そこに君臨していたのが、ローマ皇帝です。皇帝は自らを神の子と称した。それに対してイエス・キリストこそ神の子であることを主張したのが、この福音書です。すなわち、力ずくで君臨する王ではなく、僕として仕える王こそ真王であることを示したのです。この主イエスを、教会は「真の人にして真の神」と告白します。仕える王こそ、真の人であるとすれば、私たち人間が真実に目指すべきはローマ皇帝ではなく主イエスです。
イエスが受けた鳩のようにくだる聖霊。そして「愛する子」という天からの声。洗礼において、それはまた私たちのものとなるのです。主が、わたしたちよりももっと深く、わたしたちの罪人のひとりとなることを、真剣に、愛をもって受け入れてくださった方であるということを、私たちが認めるということです。その時に、私たちの心は本当に崩れるのです。主を私の仲間と呼ぶときに、私たちの心は、へりくださらざるを得ないと思います。洗礼において、私たちはキリストと同じように、聖霊を注がれ、「あなたは私の子」という神の宣言をいただいたことを喜びとして、ここから遣わされていきましょう。お祈りをいたします。