神の言葉の種蒔き
2026年2月1日
詩編126:1~6、マルコ4:1~20
関 伸子_牧師
主イエスは多くのたとえを話されました。もともと主がお語りになったたとえの意味は人びとにまず分かったと思います。たとえというのは、人の理解を助けるために語るものです。自分の言いたいことを何とかつたえようと努力をしているときに、身を乗り出すようにして、「たとえてみれば」というような調子でたとえを語り始めます。主が語ろうとした神の国は、抽象的なものでもないし、観念的なものでもないし、単なる理屈でもありません。たいへん具体的なものです。しかし、見えません。わたしたちの目には見えないのです。不信仰であればなおさら見えません。その神の国の到来を、主は熱心に語られました。それなのに理解が生まれないのです。
そこで主は種蒔きのたとえをもって語り始めます。何を語ろうとされたのでしょうか。
主イエスはガリラヤ伝道の絶頂期にあります。しかし呻くように叫ばれます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)。まず注目したいのは、このたとえが「よく聞きなさい」(3節)という言葉で始まり、「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)という言葉で終わっているということです。この言葉は、このたとえを解くかぎであります。耳を傾けて真剣にイエスの教えを聞く者は豊かに実を結ぶことができるのです。
「種」は、み言葉のことです。つまり、主イエスが教えた神の国の福音です。同じ種が蒔かれても、聞く者の態度によって、結果はまるで違ってきます。かたくなな心で聞く者は、み言葉を心の中に受け入れないので、すぐに悪魔が奪い去ってしまいます。軽薄な人は喜んで受け入れますが、困難や迫害に遭うとすぐつまずいてしまいます。この世的な人はみ言葉を聞いても、世への心遣いや富の惑わし、多くの欲望が邪魔をして成長しません。
世界で最も福音を受け入れにくい民族は、ユダヤ人と日本人だとよく言われています。イエスのメシア性を絶対に認めないユダヤ人が信じないのは分かりますけれども、そのユダヤ人よりやっかいなのが日本人ではないでしょうか。真っ向から福音を拒絶しないかわりに、まじめに信じようともしないのです。しかし主は、すべての人が心を開いて福音を信じ、救われるように招いておられます。
まず初めに御言葉の種が蒔かれた土地は道端です。それは人が踏み固めた歩道です。この歩道は御言葉を聞いてもかたくなに拒否し、決して受け入れようとしません。それゆえ、御言葉はサタンの鳥が来てすぐに奪い去られてしまいます。神の言葉を聴く多くの者は、道の端の方で福音の種を受け取ります。
次に蒔かれた土地は、石だらけのところでした。この土地は御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れますが、根がないので、しばらく続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人のことです。それゆえ、御言葉の種は芽を出してもすぐに枯れてしまいます。
第三に蒔かれた土地は、茨の中でした。この茨は御言葉を聞いて受け入れ、芽を出してある程度成長しますけれども、やがて世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実を結ばない人のことです。この場合邪魔するのは神の御旨ではなく、人が自分で神の御旨に逆らうのです。
最後に御言葉の種は良い土地に蒔かれました。そこはよく耕された土地で、御言葉を聞いて喜んで受け入れ、それに応答する人のことです。この土地に蒔かれた御言葉の種は芽生え、育って、実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは百倍にも成長するのです。これは数のことを問題にしているのではありません。もし数を問題にするとしても、「一粒の麦が、地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶのです」。その初めは、一人の人間の祈り、熱心な福音宣教です。神は良い地に落ちた種から、神の国の形成を望んでおられます。しかし、そこには十字架のイエスに対する信仰と、それにふさわしい行動がなくてはならないでしょう。
しかし、このことは御言葉を聞く私たちの側の態度に、将来の豊かな祝福を生み出す力があることを意味していません。御言葉を聞く私たちには何の力もありません。御言葉そのものに大きな祝福を生み出す力があるのです。それゆえ、その御言葉を喜んで聞き、受け入れるとき、豊かな祝福を受けるのです。種が蒔かれたことによって、地は耕され続けてきたのではないでしょうか。イザヤ書第55章10節から11節の言葉を思い起こします。「雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく 必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ 種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る言葉も 空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし 私が託したことを成し遂げる」。
神の言葉は惜しみなく蒔かれなければなりません。ここにも、あすこにも。今日も明日も。蒔かれた中に必ず良い地に落ちるものがあります。それは無駄になった種を補ってあまりある収穫をもたらすのです。自分という畑を考えてもそれは言えることです。どれだけの種を自分は無駄にしてきたのか。しかしたった一粒、良い畑に落ちるならば、それが人生全体を変えてしまうような収穫をもたらすのです。神の言葉を崇めましょう。
私たちは、生まれてくる時代や場を選ぶことはできません。しかし、確かに種が蒔かれています。神は今も創造の業を続けておられます。人の目から見ればからし種のように小さな種、ほとんど目に留まらないような小さなことであっても、気づかないうちに蒔かれ、ひとりでに実を結ぶように、神の力によって実現していきます。それが神の国のたとえであり、福音なのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」。