主イエスと共に
2026年2月15日
ヨナ1:1~2:1、マルコ4:35~41
関 伸子_牧師
主イエスの宣教はヨルダン川での受洗に始まり、まずガリラヤ湖の周辺で展開されました。ガリラヤ湖の漁師たちが弟子として召され、湖畔の町カフェルナウムが御自分の町になり、そこから全ガリラヤ地方に福音が伝えられて行きます。そこで主イエスは湖上に浮かぶ舟から岸辺に並ぶ群衆に向かって種々のたとえを語られますが、その意味を弟子たちだけには説き明かします。
先ほどお読みした箇所もガリラヤで語られました。ヨルダン川の上流に位置するこの湖はパレスチナにおける最大の淡水湖で、日本の琵琶湖とほぼ同じ面積です。このガリラヤ湖には、ガリラヤ湖ならではの異変が生じます。それは日没後突如襲ってくる突風です。ガリラヤ湖の漁師たちはこの突風を非常に恐れていたので、当然それに先立つしるしもわきまえていました。それにもかかわらず、今日の箇所での弟子たちの狼狽ぶりとイエスの静けさが実に対照的に描写されています。
「さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、『向こう岸へ渡ろう』と言われた」(35節)。まず、時は「その日の夕方」です。その日とは、イエスが舟の上から岸辺に群がるおびただしい群衆に向かって「種を蒔く人のたとえ」など数々のたとえをお語りになった長い一日のことです。この船出はひとえにイエスのイニシアティブによるものであることがうかがわれます。長年ガリラヤ湖で漁をしていたペトロたちは、その日、夜のとばりがおりると突風になる兆しを読みとっていたに違いありません。
ガリラヤ湖の向こう岸、そこは、第5章の1節に、その地方、「向こう岸」というのはゲラさ人の地方であったと書いてあります。このゲラサ人とはどのような人びとか、今はよく分からないようですけれども、明らかなことは、純粋なユダヤ人ではなくて、異邦人が多く住んでいた地方だったということです。このゲラ人も、ユダヤ人ではない、異邦の人たちである。つまり、別の信仰を持っていた人たちであると考えられます。だからそこにはユダヤ人が汚れたものと信じた豚が無数に登場してきます。そこに、イエスが行かれる。ガリラヤの人たちがいなかったから休めたのだろう、と考える人もあります。しかし、ある人びとは、主イエスはここですでに異邦の地に舟を乗り進めておられると考える。弟子たちは緊張したと思います。今まで伝道し慣れていたガリラヤ地方から、異邦の地に出て行かなければならない。その途中、主イエスはきっとお疲れになったのかもしれません。
主イエスの言葉に従って弟子たちは舟を漕ぎ出しました。そこにガリラヤ湖特有の突風が生じ、舟を襲います。弟子たちは漁師だったので、そのようなことはよく知っていたでしょう。舟は水をかぶり、水浸しになるほどでした。イエスは枕をして眠り続けています。弟子たちは我を忘れて狼狽し、眠るイエスを起こして、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えます。
「イエスは起き上がって、風邪を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風邪はやみ、すっかり凪になった」(39節)。口語訳は「静まれ、黙れ」。弟子たちは静まり返った湖のただ中で、イエスを通して働く神の力を目の当たりにして恐れを覚えます。弟子たちはこの恐れを抱きつつ、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問い始めます。これはイエスの本質に関わる重大な問いです。
「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」(40節)。この言葉は信仰を欠く弟子への非難です。マタイはマルコの「まだ信じないか」を「信仰の薄い者たちよ」(マタイ8:26)と和やらげ、しかもこの発言を奇跡実行の前に移して非難の調子をゆるめます。ルカはマルコの「なぜ怖がるのか」を省き、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカ8:25)と言うにとどめます。マルコが最も強く非難を述べているのは明らかですが、なぜ強い非難を、しかも、マタイのように奇跡実行の前ではなく、後に述べたのでしょう。それは主イエスの信頼しきった態度を強調するためではないでしょうか。「まだ信じないのか」はイエスの神への信頼です。ここでも弟子の不信仰が述べられますが、これはマルコ福音書の主題のひとつです。
奇跡はイエスがメシアであることの証明ではありません。証明ならばもはや問う必要はなくなるはずだからです。むしろイエスを通して引き起こされる奇跡は、イエスが誰であるかを示すしるしなのです。弟子たちはこのしるしを胸にあたためながら、「向こう岸に渡ろう」と言われるイエスに従い、イエスが信頼する方への信仰を見習ってゆきます。
向こう岸へと向かう途中に遭う嵐は教会にとって必要な嵐なのです。そこでわたしたちはうろたえて、「あなたがたはなぜ信仰がないのか」とイエスに叱責されるかもしれません。しかし、その嵐の中でこそ、私たちはキリストの言葉の力を知り、キリストを知るのです。「いったい、この方はどなたなのだろう」というキリストへの真の問いを抱くように導かれるのです。この問いを教会は失ってはなりません。絶滅寸前とAIが言う日本中会各教会の現状にあってわたしたちの現状は確かに滅びそうです。しかし、わたしたちはここに座っています。この会衆席を昔から舟と呼びました。シップです。ここでわたしたちは共に舟に乗っているのです。主イエスと共に船路を行くのです。そこで、わたしたち自身が朱の愛の奇跡にあずかり、その奇跡を喜ぶことができるようになるのです。
向こう岸に向かって荒海を越える小舟に乗り込み、最も激しく揺れるところに主イエスが共にいてくださること、共にその葛藤や不安と闘っていてくださることを信じて、わたしたちも向こう岸に渡っていきましょう。キリストの愛は常にわたしたちを「向こう岸」へと誘います。漕ぎ出してこそ、わたしたちはキリストの真実に触れるのです。祈ります。