カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真実の家に住むための闘い

    2026年3月1日
    エレミヤ書2:1~13、マルコによる福音書3:20~29
    関 伸子_牧師

     先ほどお読みしたマルコ福音書第3章20節以下に記されている物語は、「イエスが家に帰られると」という言葉から始まります。既に弟子となっていたシモンとアンデレの家をご自分のすみかとなさっていたようです。ペトロの妻の母である姑が、主イエスに病を癒されて以来、忠実に主イエスの身の回りの世話をしていたかもしれません。

     しかし、今日の箇所の先にはイエスを理解できない人々が登場します。それはまず、「イエスのことを聞いて取り押さえに」来た「身内の人たち」です。続いてエルサレムから下って来た、権威をもった律法学者が登場します。22節に「ベルゼブル」とあります。「悪霊の頭」の名前です。悪霊の親分です。この悪霊の親分がベルゼブルという名前でした。しかし、正確な理解では「家を支配する者」という意味のようです。人の心の家を支配するのです。悪霊は神に背き、わたしたちを支配しようとする力です。主は家をめぐってベルゼブルと争奪戦をしておられる。わたしたちを真実の家の中に住まわせるための主イエスの闘いです。この主イエスの言葉は悪魔に対する宣戦布告なのです。

     主イエスはここで既に誰にもまさるその広い心をもって生きておられます。故郷を出てガリラヤ湖畔のペトロの家に住み、ここをわが家として寛いでおられます。そして食事のいとまもないほどに人びとのために働いておられます。多くの人が喜んで主を迎え、そこで寛いでします。しかし寛げないひともありました。まずそれは、「身内の人たち」でした。身内の人たちは「気が変になった」という風評に動かされて同調し、イエスを取り押されに来ました。「気が変になっている」(21節)とは「外に立たせる」ことであり、外に叩き出されるような衝撃を受けることを意味し、「驚く」とも訳される語です。身内の人々はイエスの言動やそのイエスに引きつけられる多くの群衆を見て、イエスの異常さに気づき始めたのです。
    権威を背景にもつ律法学者は、イエスは人気を博そうとして悪霊の手下となった愚かで哀れな男だ、と中傷します。どちらも、イエスの真実の姿を見落としています。

     彼らの中傷に対して、主イエスは二つのたとえをもって答え、彼らの判断の間違いを指摘します。王国と家のたとえ(24~26節)と家財道具のたとえ(27節)を用いて、彼らの判断の不合理さを指摘します。
     23節から27節にイエスが誰であるかが二通りの仕方で述べられています。23節から26せつでは、「悪霊の力で悪霊を追い出している」という律法学者の非難は理屈に合わないことを示して、イエスは悪霊に仕える者ではないと主張されます。悪霊の頭によって悪霊を追い出しているなら、悪霊の国は分裂しているわけであり、それでは国は立ち行かない。イエスが悪霊の頭によって悪霊を追い出しているなどあり得ないことなのです。

     27節の言葉こそ、まさしく宣戦布告の言葉です。「まず強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。この言葉は何を意味するのでしょうか。28節では「どんな冒涜の言葉も」と言われたのです。どんなに神を汚すような不信仰なことを言っても許してくださるという約束でした。ところが29節では、赦されない罪があると改めて言われたのです。それは聖霊を汚す言葉、今ここで働いている聖なる霊を汚す言葉を口にする罪です。この主の言葉の真意はどこにあるのでしょうか。マルコは明瞭に語っています。なぜ主イエスがこういう断りを付け加えられたのか。主が汚れた霊にとりつかれておられると思い込み、そう言い張る人びとに対してこの言葉を語られたのです。それは、御自身において働く聖霊を否定することです。聖霊を「汚れた霊だ」と言い張るのです。主において働く霊が神の霊であるということを認めないのです。それが聖霊を冒瀆することであることは明らかです。しかもこの「聖霊を冒瀆する」と言う言葉は、聖霊を汚し続けるという意味を持ちます。一回だけではないのです。主イエスにおいて神に赦しが始まっていることを、死ぬまで否定し続けることができるなどということは、わたしたちにとってはあり得ないことです。主イエスだからこそ警告してくださるのです。そのような取り返しのできない罪を犯すなと。

     主イエスの赦しには限界があるのでしょうか。主イエスを否定し続ける者を、主はお赦しにならないのでしょうか。十字架につけた者たちをご覧になりながら、「父よ、彼らの罪を赦してください」と祈られた、あの赦しの祈りはここでは聞こえなかったのでしょうか。そんなことはありません。主イエスは、言葉はおかしいかもしれませんけれども、ここでとても真剣になっておられます。真剣に神の国、神の支配確立を語り、そのために戦っておられます。身内の外で、律法学者の手の届かないところで、真実のわたしたちの家、神のもとにある家を作るためです。

     確かにイエスの働きは驚異的で、神の知恵と力に満ちあふれていました。民衆は自分の利益のために奇蹟を求め、身内の者たちは心配し、ユダヤ教の権力者たちは不安に陥り、学者たちは悪意を込めて中傷しました。誰一人として正しくイエスを理解する者はいなかったのです。イエスが誰であるかを深めること、それがすべてに優先するわたしたちの務めです。わたしたちは、主イエスの言葉を信じて救われた者として、主の言葉に励まされ、主を証しする日々が祝される歩みを続けたいと思います。祈ります。