救いに突き進む
2026年2月8日
詩編147:1~11、マルコによる福音書2:1~12
関 伸子_牧師
主イエスの宣教はカフェルナウムで始まりました。今日の聖書箇所の前のところで主はひとたびカフェルナウムに戻り、つぎつぎと奇跡の業を行います。主が体の麻痺した人を癒やす出来事は会堂で起こるものではありません。家での出来事です。この家はペトロのしゅうとめの家だったのではないかといわれています。そこに人々が大勢集まります。戸口まで一杯に押し寄せた群衆は今やイエスの言葉を期待しています。
ここに、彼がいつも寝ていた寝床ごと担いできた人たちがいました。彼らはなんとか、この人をイエスのところに連れて行きたいと願っていましたが、大勢の人々に阻まれて、近寄ることができません。そこで、彼らはこの家の屋上に上がり、その屋根をはがして穴をあけて、寝ている床をつり下ろしたのです。この人を連れてきた四人はイエスのもとに近づけるように、知恵と力の限りを尽くしています。
それにしても、イエスがいきなり「あなたの罪は赦される」という大胆な発言に及ぶというのは尋常ではありません。何がそうさせたのでしょうか。やはり4人の男たちの行為でしょう。家に入れなければ普通はあきらめます。しかし彼らは屋根をはがして穴をあけて病人をつり降ろしました。これはどう見ても社会的常識を逸脱する行いであって、やり過ぎです。しかし主イエスを信頼して彼らは一線を越えたのです。
イエスはあらゆる業を通して、「時は満ち、神の国は近づいた」という福音を告げているのです。神の恵みによる支配を表しているのです。ある意味、中風の人が、彼をなんとか助けようとする友たちに運ばれ、イエスの前に置かれているということ自体が、彼の罪が赦されているということのしるしになっています。この場面そのものが、神の国(神の恵みによる支配)のしるしです。主イエスが中風の者にまず、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言されたのは、人間にとって何よりも罪のゆるしこそがいちばん大事なことであるからです。
ところが、そこにいた律法学者はそのことばを聞きとがめて心の中で言った。「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ」(7節)。柳生直行訳によると、「神を冒瀆するもはなはだしい。こいつは自分を神だと思っている。神のほかに人の罪を赦しうるものがいるとでも言うのか」(6,7節)。神だけが人の罪を完全に赦すことができます。しかし、彼らの主張の過ちは前半部にあります。彼らが「この人は神を冒瀆している」という結論に達したのは、「罪は赦される」と断言したイエスを人間にすぎない人物と見なしていたからです。しかし、イエスはただの人間ではありません。そこで、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と宣言します。律法学者の内心のつぶやきですが、代々の教会の人々は、むしろ逆に、イエスこそ主(神)である、と告白してきました。主イエスを罪の赦しの権威を持っておられる方として崇めてきたのです。
主イエスは中風の人に「起きて、床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われました。するとその男はすぐに起き上がって床を取り上げ、 みなの見ている前を出て行きました。この出来事は多くの人が見ている前で行われました。これによってイエスがメシアであることが力強く立証されたのです。
マルコは、この出来事に対する群衆の反応を巧みに描いています(12節)。イエスのなさった奇跡が彼らの知識や経験をはるかに超えたことであったので、すっかり驚いてしまったのです。神が「光あれ」と語ると「光があった」とあるように、神の言葉は出来事となる言葉ですが、主イエスも神のように語ることのできるお方です。ですから、人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美したのです。
私たちも、イエス・キリストにあって生きる時、自分の知識や経験を越えたすばらしい事柄を数多く経験することでしょう。私たちの罪は、人からではなく、神からゆるされなければなりません。よく考えると、わたしたちが救いのなかへ突き進むよりも、主イエスのほうがもっと激しく突き進まれた。十字架へ飛び込んでいかれた。その激しさにくらべれば、屋上に人を引っ張り上げて、屋根に穴をあけるなんてなんでもない。主イエスはご自分の体を裂かれた。血を流された。そして神さまとの和解の道をお開きになりました。それだけの犠牲がなければ救われなかったものであったということ、しかもそれだけの犠牲を払って、わたしたちがどんなに神さまに大切にされているかということをわたしたちがどれだけ心に刻んで生きることができるか、そこにすべてが懸かっているように思うのです。
「子よ」と、中風の者にイエスは呼びかけられた。この時はまだ、当時のラビたちが呼ぶようにお呼びになったのかもしれないけれども、わたしたちには分かる。わたしたちは神の子として呼ばれているのです。わたしたちが罪を知るということは、神からの蔑みを受けることではありません。神はどんなにわたしたちを大事にしてくださっているかを知ることです。大切なのは神の赦しです。神だけが、そして地上での主イエスだけが、罪を赦すことができるのです。群衆の驚きは、神への賛美に変わりました。イエスは奇跡を通してご自分がメシアであることを示され、それを目撃した人々は神をほめたたえるようになりました。真実のあかしとは、最後に神への賛美にたどりつくものなのです。中風の人のいやしの奇跡は、イエスに罪を赦す権威があることを明らかにし、神に対する賛美を生み出しています。わたしたちは主と共に立ち、一緒に主を賛美することへと招かれています。祈ります。