子どもの声が聞こえるか
2019年5月19日
詩編8:2~3、マタイによる福音書21:12~17
荒瀬 牧彦牧師
「宮清め」と呼ばれてきた箇所だが、初めて読んだ方は、「宮清め」ではなく「大暴れ」と思われたのではないだろうか。神殿の境内で、いつものように商売をしていた人たちを追い出して、その人たちの台や椅子をひっくり返した。なんでこんなことをされたのか。イエス様は、大暴れの後にこう言われた。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところがあなたたちはそれを強盗の巣にしている」。
その意味を理解するには、その頃の神殿の様子を知る必要がある。我々がタイムマシンに乗って、当時のエルサレムに行って神殿境内に入っていったら、おそらく感銘を受けたに違いない。「こんなにも多くの人々が各地から巡礼にやってきて、熱心にささげものを奉納している。なんと信仰熱心なのだ!」と。しかしイエスはそうは思われなかった。表面ではなく中身を見られたからである。
境内には多くの店が出ていた。巡礼者たちは犠牲の動物を買い求めていた。犠牲の動物は、律法の定めによって「無傷」のものでなければならない。元来の主旨は、<神様には良いもののみを捧げよ。キズものや残り物を捧げるな>ということだが、傷の有無を反する権限は祭司にある。祭司がだめと言ったら、だめなのだ。だから参拝者たちは、神殿当局から認可を受けた商人たちの販売する犠牲の動物を買っていた。つまり、神殿当局と商人たちは持ちつ持たれつである。これは我々の社会でもよくあるような話ではないか。
主イエスは神殿の大賑わいの中で、売る者にも買う者にも、祈りがないのを見た。信仰がないのを見た。神さまへの思いがなかったのだ。つまり、「神殿」なのに「神」と関係なくなってしまっているのだ。神の名を用いているが、神ご自身にはお引き取り願っていたのだ。
<いいじゃないか。売る方も買う方も助かるのだ。ウィンウィンの関係なのだ。それが宗教の役割なんだよ。> もし神がいないのであれば、それでよいのかもしれない。しかし、神はおられるのだ。人間を愛し、人間のことを思ってくださる神さまがおられるのだ。その神さまのみこころを思ったらどうでしょう?ご自分の名が語られ、犠牲の動物がささげられている。しかし、自分が人間たちに願っていることは誰も知ろうとしない。わかろうとしない。一方的な誤解を押し付けられている。神様の姿が目に見えないのを良いことに、人間たちは勝手に「神さまにはこういうふうにするのがいいのだ」と決めつけ、しかも自分たちが得になるようルールを作り、「神をあがめる祭儀」をこさえている。どれほど悲しいことだろう。心痛むことだろう。主イエスの神殿での激しい行為は、天の父の深い悲しみを伝えるためだったのだ。
この箇所は<主イエスの大暴れ>だけが印象に残ってしまいがちだが、実は、その後で、神殿に見られた光景が大事なのではないか、と私は思う。マタイ福音書は、その後の神殿に起こった二つのことを伝えている。
第一は、「目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄ってきたので、イエスはこれらの人々をいやされた」という出来事である。律法が支配する当時のユダヤ社会では、障がいをもった人たちは「傷がある」という理由で、成人男子の庭には入れなかった。しかしこの時、商売人たちが追い出されて静まり返った境内に、この人たちが入ってきて、主イエスのもとに来たのである。救いを求めてきたのである。その行為自体が<祈り>と言えるのではないだろうか。イエスはその真摯な祈りに応え、そこで神の業をなされた。神殿で、真に神と人がつながったのである。
第二は、こどもたちの声が聞こえてきたという出来事である。癒された人たち、それを目撃した人たちがイエスの不思議なわざに驚き、歓声をあげた。その時、幼子らも喜んで「ダビデの子にホサナ」と叫んだ。その声が聞こえてきたのである。
これは小さい挿話のようだが、実は重要なしるしである。こどもたちは、イエス様のことを<乱暴な人、こわい人>と思わなかった。逆だ。イエス様がいてくださることが嬉しかったのだ。ホサナと歌いなくなるほどだったのだ。
このことに祭司長たちや律法学者たちは苛立ち、「子供たちが何と言っているのか聞こえているのか」とイエスを責めた。その時、イエスは言われたのだ。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉を読んだことがないのか」。神のなさることなのだ。神の意図されたことなのだ。
この元である詩編8編のことばを、新しい聖書協会共同訳は「あなたは天上の威厳をこの地上に置き、幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた」と訳している。神は何によって、大人たちの敵対心や争い、猛々しい敵から、人間らしい心を守るのか。幼子と乳飲み子の口から出る賛美をもって、なのだ。小さい子らは神に愛されている。子らは、恵みをまっすぐに求め、無条件にそれを受け取っている。本物の純粋な祈りと賛美がそこにある。これこそが神殿にふさわしいものである。大人たちは、神を喜ぶ子どもたちの声をこそ聴かなければならない。
イエス様にひっくり返してもらおう。わたしたちの常識や忙しさや、あれやこれやの理屈を。イエス様にひっくり返してもらおう。わたしたちの無関心や無神経を。そして、神さまへの感謝を取り戻そう。イエス様にひっくり返してもらおう。わたしたちの傲慢さや身勝手を。
そして、心低くして祈ろう。「神さま、わからせてください。あなたは何を感じておられるのですか。何を求めておられるのですか。私たちにわからせてください」。