カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 願いを注ぎ出す

    2017年7月30日
    サムエル記上1:1-20、フィリピ4:6-5
    国立のぞみ教会 唐澤健太牧師

     人間は祈る存在(ホモ・レリギオースス)だと言われます。クリスチャンでなくても、特定の宗教を持っていなくても、人は祈ります。祈ることは人にとって自然なことと言えるでしょう。しかし、また祈りに挫折することも私たちの現実です。祈りが虚しく思える祈りの危機があります。祈りを「魂の呼吸」と表現することがありますが、魂が窒息してしまう試みの時を私たちはしばしば経験します。だから、「祈ることは学ばなければならない。しかも真実に祈ることができた人から学ばなければならない」のです。

     ハンナは「深い悩みを持った女」(15節)でした。特に子どもがいないことが彼女を苦しめました。子どもを産めないことは、当時の女性にとっては「恥」でした。ハンナは自らを「はしため」と呼んでいるように、自分の存在の意味を見いだせずに苦しんでいたことでしょう。

     多くの子どもを与えられているペニナは、ハンナに辛くあたったようです(7節)。夫エルカナはハンナを愛していましたので、ペニナにはハンナに対する嫉妬心があったでしょう。ペニナはハンナことを、敵として見ていました。夫エルカナはハンナを気遣いますが、夫が子どもの代わりになるはずもなく、ハンナは家族の中で非常に孤独を経験していたことでしょう。

     ハンナは、万軍の主にいけにえをささげる礼拝の時に、彼女は何も食べず、泣いて過ごしていました。いけにえをささげる礼拝は、主なる神との和解する礼拝です。しかし、その喜びの礼拝の時も、ハンナには苦痛の時だったのです。彼女は「今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった」とあります。毎年、毎年、彼女はこの礼拝の時を、何も食べず、泣きながら過ごしていたのです。子どものいないハンナにとって家族がそろう食卓は悲しみをより深くする席だったのでしょう。彼女は、いてもたってもいられなくなり、席を立ち、主の神殿に向かったのです。

     「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(11節)。抑えきれない感情が吹き出た場面です。ハンナは「悩み嘆いて、激しく泣いた」のではなく、「悩み嘆いて主に祈り」、そして泣いていたのです。ハンナには「訴えたいこと、苦しいことが多くあ」ったのです。ハンナは、主の御前に、心からの願いを注ぎだした。「つのる憂いと悩みのゆえにわたしは今まで物を言っていたのです」(16節口語訳)。「物を言っていた」という表現が面白いです。ハンナは神様に物を言っていたのです! 相撲で行司の軍配に対して、異議がある時に「物言い」がつきます。ハンナは、主に対して願いだけではなく、「物言い」をつけたのです。

     支離滅裂であろうと、断片的にしか、言葉にできなくても、うめき声のように、言葉にならない声であっても、主に物申すなら、それは「祈り」です。物申す祈りが私たちには少ないのではないでしょうか。フォーサイスは「我々の祈りは『み心がなりますように』ということばでいつも終わるかもしれない。しかし、そのことばで始める必要はない」と記しています。

     私たちはあまりにも神の前にお行儀が良すぎる祈りしかしていないのではないでしょうか。そしてちょっと祈りが聞かれないことですぐに祈ることをやめてしまう。悩み嘆き、泣くことはあっても、祈ることを失ってしまう時が、あるように思います。しかし、ハンナは何年も苦しめられる中で、なお主に祈りました。主に訴えました。主に心を注ぎ出しました。このハンナの祈りに私たちは学びたいと思います。嘆くこと、主に文句を言うこと、物を申すことは決して不信仰ではありません。信仰者だからこそ、主に者を申すのです。神を信じないものは、神に物を言ったりはしません。

     「注ぎ出す」という言葉は、旧約聖書の他の箇所では「身ぐるみをはぐ」、「肌を露わにする」と訳されています。心を注ぎ出すとは、私たちの心を露わにするということです。祈りとは、神の前に私たちの心を露わにすることです。私たちはなかなか心を露わにすることの出来ないものです。まして深い悩みを人に簡単に話したり、分かちったりすることなどできません。しかし、誰にも言えない。誰にもわかってもらえない。そのような深い悩みのところこそ、私たちが主と出会う場であり、私たちの祈りの場なのです。ハンナの祈りはそのことを私たちに教えているのです。

     心を注ぎだしたハンナは、祭司エリから祝福の言葉を受け、それに応答し、主の神殿を離れました。ハンナは帰って食事をしたが、「彼女の表情はもはや前のようではなかった」とあります。とても不思議ですね。ハンナは直接、神の声を聞いたわけでも、子どもを授かる約束を聞いたわけでもありません。ハンナは祈りました。子どもを授かりました。表情が変わりましたでもありません。ハンナは心を注ぎだし、祈り、ただ祭司から祝福の言葉を受けだけです。現実は何一つ変わっていません。しかし、この時を境にハンナはまったく新しい人のようになっています。

     こういう不思議なことが私たちの礼拝でも起こります。ハンナの経験は、礼拝に集う者たちが経験することです。嘆きから讃美へ、という変化は、私たちの礼拝体験そのものであり、信仰者の祈りの経験にほかなりません。私たちも深い悩みを抱え、誰からも理解されず、食事も喉が通らないような中で礼拝に与ることがあります。しかし、祝福の祈りを受け、送り出されていく時に、その表情が変えられている時があります。
     脳梗塞で入院し、嘆きの中にKさんはいました。しかし、その苦悩を通して、「先生、祈りは希望を受け取ることだとわかりました」と言われました。嘆き祈ること、それ自体「希望」です。祈ることが私たちの救いなのです。

    「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:5-6)