神は遠く離れてはいない
2021年6月6日
エゼキエル18:25~32、使徒言行録17:22~34
関 伸子牧師
今日、めぐみ教会の礼拝の中で石塚惠司牧師の担任牧師就任式が行われています。「Jミッション風」に石塚先生の就任のあいさつが掲載されています。ここで先生は「保線夫」に言及して、「保線夫、この仕事は一つひとつの区間に責任を持ち、鉄道の運行にはなくてはなりません。牧師も同じです」と、尊敬する神学校の先生が語ったことが記されていました。伝道とは本当に不思議なわざである。それは、人間の知恵によらない「神のわざ」である。人は神に用いられ、神に動かされて、神のご計画の中を誠実に生きればよいのである。
使徒言行録第17章を読むと、パウロはベレア(10節)でも騒乱にあい、テモテとシラスをそこに残して、一人先にアテネに渡った。アテネは待つことのほかに仕事のない場所であったようである(16節a)。しかし、このことも神の計画のうちにある。パウロのさしあたっての日課はテモテとシラスを待つことであった。そこに神が介入する。神はパウロのうちに憤りを引き起こし、大胆な変更を加えられた。「憤慨した」というのは、原文は「彼の霊がかき乱された」という。ある日本の聖書学者は「じりじりした」と訳している。黙っていられなくなったということである。いつも祈りに生きている霊が、突き動かされて黙っていられなくなる。伝道をしていると、「イエスさまを信じてほしい」と言わずにおれなくなるときがある。
アテネという場所は、プラトンがアテネにアカデメイアを創設したことでよく知られています。アテネは深遠なる思想的伝統をもった、まさにアカデミックな町であり、人々は広い教養と豊かな知識をもっていた。しかし、当時のアテネは〈文化〉の果てが〈偶像〉となって氾濫した。そのような町でパウロは語ったのである。それに対して、アレオパゴスにおける説教は、純然たる異邦人に向けてのものであって、パウロは相手かまわずとらえてはその心情を訴える。
アテネの人々は自分たちが知っている名前のある神を拝むと同時に、自分たちの知らない神をも拝むことで、あらゆる形の神の罰を回避して幸福を得ようとしていたのである。そこで、パウロはアテネの人々が知らない唯一真の父なる神を教える。アテネなどから発見されている碑文は「知られない神々」という複数形のものだけであるということを考慮すると、パウロはこの複数形を単数形に変えることで、唯一真の神に話題を転じようとしたのであろう。
パウロは「世界とその中の万物とを造られた神」について、「すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです」(25節)と語る。この世界が神によって創造されたものである以上、すべての宗教的な営みもまた神の御手の中にある。また、神は人を「神を求めさせるため」(27節)に造られた。どのようにして神を求めさせるのか。「探り求める」とは、「触れる」と訳すこともできる語であり、天地万物を触れるほどに熱心に探るなら、それを造った神を見いださないはずがないことを示している。そして、回心して信仰を持つためには聖書を開く必要がある。パウロが第17章2~3節で聖書を開き、適切な箇所を指し示して神やイエスについて語っていることを考えると、人々は聖書を開いて熱心に神を「捜し求める」なら、必ず唯一真の神を見いだすということも示唆されている。
パウロは天地万物を造り、死人を再び真に永遠に「生きる」者として復活させる唯一真の神を説き、単に「神の中で私たちは生き、動き、存在している」だけでなく、「神の中で私たちは死に、止まり、存在しなくなる」ことも復活の前提とされているのである(32節)。死人の復活を説いたパウロに対する人々の反応は、あざ笑うという積極的な軽蔑か、話を無視しようとする消極的軽蔑である。
しかし、パウロの説教によって信じた人々の中にアレオパゴスの議員もいたことは、アテネという異教の地での神の言葉の力強さを物語っている。このディオニシオはアテネの教会の初代監督になったと言われている。また、ダマリスという女も人々から尊敬されていた人だったのだろう。ここでも、神の言葉は人種や身分や性別に関係なく受け入れられたのである。ここに神の伝道の広がりをよく読み取れます。
神は「知られてない神」に献げている祭壇に人びとが満足するような、人びとの好奇心を満たすようなかたちで姿を現すということはなさらない。そして、み子イエス・キリストを甦らせる神としてここに姿を現される。18節に「イエスと復活について福音を告げ知らせた」とあります。パウロは、このイエスと復活こそが福音であり、喜びの知らせであるということを、どこでも妥協することはなかった。その意味で、パウロは同じ福音を語ったのである。ただ、アテネの人びとには、アテネの人びとが分かってくれるように語ったのである。ここで語られていることもまた真理であることに変わりはないのです。祈ります。