悲しみが喜びに変わる
2022年5月8日
創世記18:23~33、ヨハネによる福音書16:16~24
関 伸子牧師
今日の箇所はヨハネによる福音書第13章から始まる主イエスの長い説教の一部ですけれども、ここでも「光と闇」のコントラストが鮮明に現れます。ユダの裏切りが、いよいよ、実行段階に入り、闇が重く辺りを包みます。その夜の闇の中で、おそらく、他には物音一つしない静けさの中、張り詰めた緊張のある弟子たちの耳に、「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる・・・・・・」という主イエスの謎めいた言葉が聞こえてきます。
ここで、「しばらくすると」(ミクロン)に注目したいと思います。ギリシア語の「ミクロン」は、1ミリの千分の一、肉眼では示せない「ほんのわずかな間」を指します。最初の「見なくなる」はイエスの十字架と死を示唆し、次の「見るようになる」はイエスの復活を暗示していると見るのが自然ですけれども、カルヴァンは復活よりもむしろ聖霊降臨を指していると理解します。二者択一的にどちらなのかと問うよりも、復活によって再びイエスが臨在するようになり、聖霊降臨によりイエスが霊において臨在することになるのだから、復活と聖霊降臨とが重なり合っていると見ることができます。
17節で、弟子たちは、16節のイエスの言葉になかった「『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」と言っています。弟子たちは、「しばらくすると」という言葉の意味さえ分からないと言います。ユダがすでに裏切りの実行へと走り、ペトロの裏切りも予告された後で、弟子たちのほとんど絶望的と言える無理解がここで露呈されます。その結果、鮮やかに浮かびあがってくるのは、孤立無援の主イエスの姿です。
この「ミクロン」を生きるとは、どういうことでしょう。主イエスの不在の悲しみ、心に空虚な穴があいてしまう経験を生きるこのではないか。旧約聖書学者の浅野順一さんが「ヨブ記」(岩波新書)に次のように書いています。「人間一人ひとりの生活や心の中には大なり、小なり穴の如きものが開いており、その穴から冷たい隙間風が吹き込んで来る。(中略)例えば病弱であるということも一つの穴であろう。その穴を埋め、隙間風のはいらぬようにすることも大事であり、宗教がそれに無関係だとはいい得ない。しかし同時にその穴から何が見えるか、ということがもっと重要なことではないであろうか。穴のあいていない時には見えないものがその穴を通して見える。健康であった時には知りえなかったことを病弱となることによって知り得る」。信仰者は、穴が無ければ見えないものを、穴を通して見るものなのだ、と言っているのだと思います。
また、それは、待ちつつ祈る時です。主イエスの名で祈るのです。イエスは私たちの願いを執り成し、御心にふさわしいことを与えてくださいます。それは、この世の成功とは異なります。時が来て、豊かな実りを与え、喜び満たすものです。人間とは穴を持つ存在である。その現実を引き受け、逆に穴から世界を見直す。それが苦難の意味となるのです。
主イエスは弟子たちが尋ねたがっているのを知って言われます。「あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる」(20節b)。「イエスは「悲しみが喜びに変わる」一例として妊婦を引き合いに出します。しかし、一方では「悲しみが喜びに変わる」のに対して、他方は「苦しみが喜びに変わる」のだから、必ずしも正確に対応しているわけではありません。この場合、「悲しみ」とは「心の痛み」であり、「苦しみ」とは「体の痛み」です。だから、弟子たちの「心の痛みは喜びに変わる」ということであり、妊婦の「体の痛みは喜びに変わる」ということになります。自分の子どもが生まれたとき、それまでの不安や思い煩いが文字どおりいっぺんに吹き飛んで、いい知れない喜びと感謝の思いに満たされたとよく聞きます。ですから、「子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれた喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」というイエスの言葉には深く共感します。
「このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと愛、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない」(22節)。復活によってイエスが再び弟子たちに遭うことで弟子たちの悲しみは喜びに変わります。その喜びを弟子たちから奪い取る者はもういません。なぜなら、復活したイエスは「世の終わりまで、いつもあなたがた(弟子たち)と共にいる」(マタイ28:20)からです。
いろいろなことが八方ふさがりのように思える現状のなかで、主イエスは、今日の聖書箇所で、真心をつくし、いのちがけで、沈みがちな心に語りかけ、目を開かせようと、細やかな気配りをしてくださっています。一切は神の子主イエスが私たちと共にいてくださるという事実にかかっています。この事実に目覚め、そして、繰り返し、新たに目覚めるときに、弟子たちと同じように、私たちも喜びで満たされるのです。お祈りいたします。