カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 福音の希望に生きる

    2022年10月9日
    創世記32:23~33、コロサイの信徒への手紙1:21~29
    関 伸子牧師

     今日の箇所の直前に記されていることを読むと、コロサイ教会の人々は、パウロが伝えた福音とは異なる教えに引き込まれる危険にさらされていたようです。そこで、人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事と言われることに気をつけるようにとコロサイの信徒を戒めます。彼らに欠けていることは、キリストの苦難を身に負うことのようです。

     主イエス・キリストは、創造と救いのわざにおいて、「ご自分がすべてにおいて第一の者」(18節)となられたお方です。このような、すばらしいキリストによる救いに「あなたがたも」あずかっているという事実にパウロは注意を促しています。それにしても、救いの事実は忘れられやすいものです。明確な信仰も、そのまま放っておけばいつしかぼんやりとしたものになってしまいます。そこで、私たちは「あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節a)と励まします。

     そして、24節以下、パウロに与えられた務めに言及されています。それにしても、今日の箇所に理解しにくい言葉が含まれています。それは、「私はキリストの苦難の欠けたところを身をもって満たしています」という言葉です。「キリストの苦しみ」が「キリストの忍んだ苦難」を意味しているなら、キリストの苦難は不足していて、パウロがその不足分を補わなければならない、といった意味になりかねません。しかし、ここでの「キリストの苦難」はキリストが忍んだ苦難のことではなく、「キリストにおける苦難」、つまりキリストにおいて使徒たちである私たちが忍ばなければならない苦難であるなら意味は違ってきます。人を救うために忍んだキリストの苦難は完全ですが、それに倣って忍び、教会共同体を築きあげるために必要とされる、人間の側の苦難がまだ欠けている。パウロはそれを率先して担おうと考えています。それが教会に仕えるパウロの姿です。

     キリスト者は、主イエスの苦難によってもたらされた救いを宣べ伝えていくために、苦難を担って従うのです。この「苦難」(スリプシス)」という言葉は、主イエスの追われた苦難を表すために用いられた例はありません。「代わりに満たし尽くす」と直訳することができます。使徒やキリスト者にふりかかる迫害や苦しみを表しています。「人間が成し得る最高のことは、過酷な運命を克服することである。そして、運命に打ち克とうと苦しんでいる他者を助けることである」と、フランクルは『人生があなたを待っている』という著書に記しました。キリスト者は、苦しむ者を支えることと人のために苦しみを担うことによって、キリストの苦しみに参与します。苦難には大切な意味があります。苦難が他者を生かし、共同体を創ることを教えられます。

     キリストが十字架の死によってすべての人を救ったという福音は「秘められた計画」と呼ばれます。それは世々に渡って隠されていましたが、「今」明らかにされました。この秘められた計画のすばらしさが告知されることを神は望んだのであり、宣教者であるパウロは苦難の最中にあっても、異邦人に福音を知らせる使命を負っています。この秘められた計画は「すべての人」に伝えられます。

     神の御計画の内にあると気づく時、苦しみは耐えがたいものではなくなります。さらに、どんなに労苦に満ちた働きであっても、それが、これまでは知らされておらず、今明らかにされた神の奥義にかかわることであると知れば、それは喜びに変わります。

     南ドイツのオーベルアマルガウという村では、10年に一度村中総出で、キリストの受難劇をやります。これは世界的に有名になって、そのチケットを買うのが大変だそうです。神学校のクラスメートが見に行ってその歴史を語っていました。本来、この村の発想は、自分たちで素人の劇をやり、キリストのご苦難を偲ぼうとしたのです。人々に見せる見世物としてではなく、キリストの苦しみを観客としてではなく、自分の課題として捕らえることにあったはずです。これは自分の体験であると共に、宣教でもあったのです。

     主イエス・キリストは私たちのために十字架にかかり、救いを成就してくださった、そこで、今度は、私たちの出番で、その十字架を宣べ伝えることは、人間のわざではありません。「あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です」と述べています。伝える私たちの中に既にキリストがいらっしゃるのです。その方が、「栄光の希望」なのです。圧倒的な恵みを受けるとき、完全に受け身になりますが、その「完全な受け身」は、同時に、「完全な捨て身」です。福音における神と人との関係は、自由な人格の関係です。「自由を得させるために、キリストは私たちを自由にしてくださった」(ガラテヤ5:1)とパウロは語ります。だから、二度と奴隷のくびきにつながれない。神がすべてということは、私たちはその前に「無」にすぎないことではなく、神はすべてだから、私たちの全力投球を生むのです。

     私たちは、キリストにある者として、尊く、恵みに満ちた救い主のために、神をあがめ、神に賛美をささげ、主に栄光を帰するはたらきをしていきたいと思います。祈ります。