私たちと共にいるイエス
2023年5月21日
エゼキエル書43:1~7c、使徒言行録1:12~26
関 伸子牧師
今日、私たちが読む使徒言行録は、キリストにおいて生じた事を書くのに二つの言葉が用いられています。一つは死に打ち勝つ「復活」という言葉であり、もう一つは神の右に座り、力を与えられた「昇天」という言葉です。これらの二つのモチーフは、キリストの力と命が、霊を通して弟子たちに与えられる使徒言行録第2章のペンテコステにおいて結び付けられます。
主イエスの昇天は、確かに弟子たちにとって不思議な出来事でした。しかし、彼らはいつまでもそこにたたずんでいるわけにはいきませんでした。使徒たちは、主の最後の晩餐の場を想起させる「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た、とありますが、その一方で彼らは「ガリラヤの人たち」(11節)と呼ばれています。本来なら、帰ると言った時、ガリラヤへ帰るのですが、彼らは「エルサレムを離れないで」(4節)、「都に留まっていなさい」(ルカ24:49)という主の命令に従い、自分たちの戻るところはエルサレムしかないとわきまえて、「家の上の階」に集まっていました。
集まっていた者たちの名前も記されています。11弟子の他に二つのグループがあったことが記されています。女たちと主の家族でした。この女たちとは、使徒や主の兄弟たちの妻ではなく、生前のイエスに従った女性の弟子たちだったと思われます。この箇所から、最初の11弟子だけが原始キリスト教団の核をなしていたのではなく、少なくとも、ここには名前のはっきりしている8名の者が加えられていたことを知らされます。そして何よりもルカが強調しているのは、これらの人々が「みな、心をあわせて、ひたすら祈りをしていた」ことです。これは直訳すると、「祈りに打ち込んでいた」という意味になります。祈りは教会が形成されるうえで人間のなし得る最大の準備でした。
その頃、120人ほどのきょうだいたちがあつまっていたところに、ペトロがその中に立って言いました。ペトロのこの演説は二つの部分から成ります。その各々は、ギリシア語のデイ(ねばならない)(16、21節)によって強調されています。起こったすべてのことは、聖書の必然的な成就として、また神の意志として起こったのです。イエスがユダに裏切られたという悲劇的な出来事でさえ、神の意志が進められる中で捕らえられます。
ここで、主イエスを裏切ったユダが問題になっています。ユダが不正な報酬を得て、土地を受け取ったということは、ユダがイエスの命をねらう祭司長たちに銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をし、ユダの自殺後は、祭司長たちがユダの返したそのお金で陶器師の畑を買ったことを指しているのかもしれません。ここには、ユダの体が裂けて内臓がすべて流れ出るほどのものだと書いてありますが、この表現は原語では受動態であり、神がそうなさったことと考えられます。
ユダは12人の使徒のひとりとしてイエス御自身によって選ばれました。それは上からくるものですけれども、ユダの罪、その弱さは、誰でもみな持っています。ですから、最後の晩餐のとき、イエスが「あなたがたのうち一人が私を裏切るであろう」と言われた時、弟子たちは、みな、「まさか、私ではないか」と心配そうに問わざるを得なかったのです。ユダの罪は弱さではなく、絶望ではないでしょうか。
ユダが死んだ後には、他の人がその務めを埋め合わせる必要があります。ユダの代わりの使徒を選出する際くじを使ったのは、この時点でイエスが昇天していて聖霊がまだ本格的に到来していないため、神の思いを直接知るには、祈ってくじを行うというイスラエルの民の昔ながらの方法しかなかったからです。
こうして、マティアが選ばれて使徒になり11人の仲間になりました。ここで選ばれたマティアはこの後聖書に全然名前が出てきません。しかし、主のみこころによって選ばれたのだから名前は出てこなくても、使徒として立派に働いたに違いありません
マルティン・ルーサー・キング牧師はこう言いました。「われわれは、現状がどんなに陰鬱で破滅的であろうとも、われわれが自分たちだけではないということを知っている。人生上の最も狭い抑圧的な独房の中でも、神はわれわれとともにいて下さるからだ」。インマヌエル、神が共におられることを知っている人の強さがここにあります。
教会の組織を整えるのは、信仰をもって祈り、選ばれた使命がいつも優先します。聖霊は、ただ祈って待つ人の上に下ります。キリスト者たちの一致した祈りこそ、神の人類救済の歴史を進める原動力であることを受け取り、私たちも、思いをひとつにして、祈りの日々を大切にしていきたいと思います。祈ります。