カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真実な存在は語る

    2024年1月28日
    詩編125:1~5、ヨハネによる福音書8:21~30
    関 伸子牧師

     ヨハネ福音書第8章12節で主イエスは、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」と、ファリサイ派の人々の前で言われました。仮庵祭の間エルサレムの町のあちらこちらに、神殿を中心として火がたかれ町を明るくしていたようですけれども、イエスの光はそのような狭い所を照らす光でも、ユダヤ人だけを照らす光でもなく、全世界のすべての人を照らす光であるというのです。

     この背景を思い起こしながら今日の箇所を読むとよく分かると思います。イエス・キリストの十字架の愛と復活の命に触れた者は、人生の旅路において確かな土台と目標を与えられるのです。

     「私の行く所に、あなたがたは来ることができない」(21節)にはイエスの複雑な思いが込められています。「来ることができない」は、主イエスと人々との断絶を示す表現であり、23節では「上と下」で言い表されています。「上から来た者」は天に属する者であり神の側にあることを指します。

     「下から出た者」、すなわち地上に固執する私たちは、地上における確かさ、財産、健康、名誉などで自己保全を考えがちな者たちです。使徒パウロが、「行き着くところは滅びです」(フィリピ3:19)と忠告したことを思い起こします。多くの人は、自分の考えた神を神と信じ(「彼らは腹を神とし・・・・・・」)、そこに頼るがゆえにこの世のことしか考えず、その結果、この地上の確かさに走らざるを得なくなる。そして、上から来られた救い主を信じることはないゆえに、罪から解き放たれることはできずに死に至る。

     しかし、キリスト者の生き方は、単に地上の確かさに絶対的な信頼を置かないというだけではありません。大切なことは、後のペトロやパウロが、たとえ地上の確かさから離れて生活することがどんなに信仰の純粋さを保つとしても、「この地上(俗)から逃げ出して生きよ」とは言っていないことです。

     主イエスは、「『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」(8:24)と語りました。「私はいる」は、「エゴー・エイミー」というギリシア語です。そのまま英語に訳せば、“I am”という言葉。これは旧約以来の表現と言われています。

     主なる神がモーセに現れ、「私はいる。私はいるという者だ」(出エジプト3:14)と宣言されたことと同じ内容です。主エジプト記第3章に、これに通じる「私はいる」という言葉が出てきます。神様がモーセを出エジプトの指導者として立てる場面です。モーセはイスラエルの人々のところへ行った時に直面する問題を予期して、「彼らは、『その(神の)名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう」(出エジプト3:13)と食い下がりました。神様はモーセに答えて、「私はいる、というものである」と語りかけました。「私は存在する」。言ってみれば、それだけです。これが、神様ご自身がモーセに明かされた神様のお名前でした。

     私たちが生きている世界は、「神はおられるのだろうか」と問わざるを得ない世界です。そう感じる出来事が次から次へと起こります。そうした中で、イエス・キリストが「私はある」と宣言してくださる。つまり、イエスがまさしく神と一体、神ご自身であることを宣言される。この宣言の中に大きな励ましと慰めがあります。この父と子の一体性は、聖霊によって知らされることです。

     主イエスが十字架につけられ、そして復活されてはじめてイエスとは誰なのかが分かる。そこではじめて人間、自分というものがいかに罪深いものであり、罪と死というものから逃れ得ない存在であることが分かり、同時に私たち罪人を愛し、私の罪を赦し、私を死から解放してくださる神の愛を知るのです。それを頭で知るのではなく、私の全存在をかけて知る、信じることができるのです。主イエス・キリストこそすべての人間とすべての被造物を照らし、私たちの心の奥底まで照らしてくださる世の光なのです。

     主イエスの十字架の死が深い審きの意味を持っていることは否定することができないと思います。しかし同時に、この十字架がユダヤ人たちにはもう救いが及ばないほどの限定されたものであるとも言えないと思います。主イエスはやがて甦られる。天にお帰りになる。霊を送ってくださる。その霊を受けたときに教会は立ち上がる。立ち上がったときに使徒ペトロがそれを代表して説教をしました。使徒言行録第2章が伝えるペトロの説教の最後の言葉は「イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。この時ペトロは自分たちを除外してはいなかったと私は思います。ペトロだって逃げたのです。私について来る者は命の光を持つ、と主イエスが告げてくださったのに、その光であるイエスを捨てた。「命の光」を捨てたのです。その捨てた人間が聖霊によって再び生かされ、人びとの前に立ったときに、あなたがたもわたしたちのようになれる、とだけしか言うことができなかったと思います。

     「私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」(29節)。この主イエス・キリストを遣わされた神のみ心とは、私たちが救われること以外の何ものでもありませんでした。あなたも神と共にいる。神はあなたと共にいる。主イエスの言葉がここに響いています。この大いなる恵みに感謝します。お祈りをいたします。