カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 舌よハレルヤ

    2024年6月16日
    詩編113編1~9節、ヤコブの手紙3章1~12節       
    濵崎 孝(隠退牧師)

     教師は、弟子や生徒などに人生の道案内をすることがありますが、ヤコブの手紙の執筆者は、初代教会の「教師」(ディダスカロス)の一人でした。ヤコブ先生は、キリスト教へ改宗した人々を教育し、信仰の人生の道案内をしたのです。そして、教会の中には、そういうつとめに憧れる人もいたようです。そこで、ヤコブ先生は、「私の(しまいたち)きょうだいたち、あなたがたの多くは教師になるべきではありません。知ってのとおり、私たち教師はより厳しい裁きを受けるのです」(1節)と忠告しました。

     「教師」は、教えを担う立場ですから、その使命の多くを言葉で果たします。ですから、言葉で過ちを犯すことが多いのです。キリスト・イエスさまは、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(マタイによる福音書12章36節)とお教えになりました。私どもは、いい加減な気持ちで憧れを追い求めることを避け、神さまからのお召しに応えて生きる者として、考え深くあらねばなりません。

     ヤコブの手紙の語りかけを真剣に聴きましょう。「私たちは皆、度々過ちを犯します。言葉で過ちを犯さないなら、その人は体全体を制御することのできる完全な人です」(2節)。「しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(8節)。……これは、「教師」という立場の人に限らない、私ども皆が負っている人生の大きな課題ではないでしょうか。

     ヤコブ先生は、馬とくつわの関係、船と舵の関係を想い起させていますね。小さなものが、「全体」を支配したり、大きなものに決定的な意味を持つではないか……というのです。そして、「同じように、舌も小さな器官ですが、大言を吐くのです」(5節)、「舌もまた火」(6節)であって、「小さな火が大きな森を燃やす」(5節)ように、「人生の歩みを焼き尽くし」(6節)てしまうこともあるというのです。私どもの舌は小さいですが、舌には人生がかかった大きな課題があるのです。

     ヤコブ先生は、舌のために祈ることを強く呼びかけたのです。私どもは、舌のための祈りをして来たでしょうか。旧約聖書の詩編39編2節には、そういう祈りが見出されます。「私は言った/『舌で罪をおかさないように、私の道を守ろう。/悪しき者が私の前にいるうちは/口にくつわをはめておこう』と」。詩編141篇3節にも、「主よ、私の口に見張りを置き/私の唇の戸を守ってください」という祈りがあります。詩編120篇2節は、他者の舌への祈りです。「主よ、私の魂を助け出してください/偽りの唇から、欺きの舌から」。新約聖書のコロサイの信徒への手紙には、「いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい」(4章6節)という舌にかかわる祈りの課題が記されています。ウイリアム・バークレーの『明日への祈り』という本の中には、「舌のための祈り」があって、次のように祈ることを奨めています。「主よ、われらの舌を見守りたまえ。しかして真実ならざる言葉、やや真実なりとも思いやりなき言葉を、はげしく口にすることなからしめたまえ。主イエス・キリストの愛によりて願いたてまつる。アーメン。」(滝沢陽一訳)……こうして振り返ってみると、私どもの人生には、舌のための祈りが足らなかったのではないでしょうか。

     ヤコブ先生は、小さな舌が大切な人生を大いに傷つけ、台無しにさえすることがあるということを強調したため、舌についてかなり否定的なことを語りました。けれども、それはおぞましいことではないかと語った言葉の中で、ヤコブ先生自身がふれたように、「私たちは舌で、父なる主をほめたたえ」(9節)るというすばらしい世界も開くのです。詩編113篇1節は、「ハレルヤ。/主の僕たちよ、賛美せよ。/主の名を賛美せよ」と呼びかけていましたね。ヤハウェというのは、「ヘブライ語で『ヤ(ヤハウェ=主)を賛美せよ』の意味」(用語解説)ですが、私どもは舌で神さまを賛美するという最高のありようを目指して、健やかに祈りの路づくりを進めるよう促されているのです。

     「しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません」。私どもはハレルヤという聖書の呼びかけに応答したいのですが、どうしたらよいのでしょうか。主イエスさまは、次のように言われました。「およそ心から溢れることを、口はかたるのである」(マタイによる福音書12章34節b 舌の課題は、心の課題‼)。私どもは、自分の口の中の舌であろうと、自分の力では治められないという現実を、誠実にみとめなければなりません。そして、だからこそ、私どもの舌や体、私どもの人格全体を治めることが出来る主イエスさまを心にお迎えするのです。主イエスさまが私どもの心の中に住んでくださり、そうして聖霊の偉大な力が満ちると、私どもは舌を制御することで優れた存在へと導かれるのです。

     神さまや人間を呪うためではなく、主なる神さまを賛美し、人間らしい言葉を隣人に語りかけるために、舌のための祈りを大切にしていきましょう。主イエスさまが、舌のための祈りを豊かに祝福してくださいます。ヤハウェ・イルエ。