カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 新しい年を開くもの

    2025年1月5日
    イザヤ書56:1~8、ガラテヤの信徒への手紙3:23~29
    関 伸子牧師

     2025年を迎えました。この新しい年を迎えたわたしたちの心にはどのような希望があるでしょうか。ニュースや新聞にすぐ左右されるわたしたち自身にも責任があるのかもしれませんが、あまり落ち着かない心があります。将来に対する不安があまりにも多く語られ、わたしたちの心に囁き込まれているからかもしれません。神社やお寺で祈願をする人たちが多くあります。しかし、わたしたちは、そういう人々を見て、自分とどこが違うと言えるでしょうか。世の中がどう変わるかわからないけれども信仰さえあれば、どんなことが起きても自分の心は揺るがないですむと簡単に言えるでしょうか。

     こういうことを改めて考える時、わたしたちが自分の信仰をどういう言葉、どういう表現を使っているかを考えてみると、「私は信仰を持っている」、「あの人は信仰を持っていない」、そういう言い方をしないでしょうか。そのような自分たちの信仰についての言葉遣いを考えならが、今日与えられた聖書の言葉を読み始めると、わたしたちは意表を突かれる思いがします。

     今や、「あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです」(26節)。キリスト・イエスにおいて一つとなる、と語るパウロはまず、「真実により、キリスト・イエスにあって神の子なのです」と説きます。「キリスト・イエス」という表現は、イエスが救い主であることを強調するための倒置であり、このイエスを救い主とする人々は、イエスと同様に父のなる神の子とされるのです。「あって」を直訳すると「の中で」となります。皆が神の子であるのは、「真実によって」、すなわち、「キリストを拠り所として」いるからです。こうして、神の子は養育係の下から、父なる神の恵みの下に導かれたのです。

     27節では洗礼に言及しますが、これを直訳すると「なぜならキリストの中へ洗礼を授けられたあなたがた全員は、キリストを着た」となります。洗礼とは「キリストの中に入れられ、キリストの中にすっぽりと包まれるような親密な関係に入る」ことなのです。さらに「キリストの中への洗礼」は「キリストを着る」と言い換えられています。わたしたちの信仰が、わたしたち自身の中ではなくて、キリストの中にある、という表現の持つ不思議さを心に留めたいと思います。

     キリスト・イエスの中にある信仰と言い、あるいは信仰がやって来たと言う、このような表現は、わたしたちにとってなじみのある言葉ではないと思います。しかし、パウロにしてみれば、自然な表現として、こういう言い方しかできない。なぜなら、信仰はどこにあるかと問われれば、わたしの中にではない、キリスト・イエスの中に、そういうふうにしか言えないからです。私が信仰を持つようになったのか、そうではない。信仰がわたしのところにやって来た、外からやって来た。信仰が自分を捕らえ、侵入してきてしまった。それがパウロの知っていた信仰、パウロに与えられた信仰なのです。

     こうして、神の子とされたキリスト者は、ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、男と女も含めてすべての人々です。この人々の間には民族や階級やジェンダーによる区別がないと断言されます。キリスト者の間に差別がありえないのは、「キリスト・イエスにおいて一つ」だからです。これも直訳すると「キリスト・イエスの中で一つ」となりますが、これは「一つのキリストの体」、すなわちキリスト自身を指していると思われます(コリント一12:13)。

     パウロはコリントの信徒への手紙二第5章17節に「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」と記します。パウロはこの新しい創造はすでに始まったけれども、まだ完成していないと考えていますから、キリスト者は「男」、あるいは「女」であると同時に、「男と女もない」ものにされ始めていると理解しているはずです。

     そうであれば、新しい被造物としていまだにこの世を生きているわたしたちは、軸足を「これからの自分」に置くのか、それとも「これまでの自分」に置くのか、それが問われています。

     「キリストのもの」とは、キリストを着て、キリストの内で他のすべての人々と一体になることです。アブラハムの「子孫(スペルマ)」とは、アブラハムの子(種)(直訳)に由来する人のことですけれども、ここでは、イエス・キリストを信じることによって神がアブラハムとその子孫に約束した祝福を受け継ぐことのできる相続人を指しています。

     したがって、本来ユダヤ人たちの父祖であるアブラハムへの神の祝福を後代の人々が相続するためには、割礼を受けてユダヤ人になるのではなく、キリストに至る洗礼を受けてキリスト者となる必要があるのです。

     すべてのキリスト者が小さなキリストとして価値を持ち、互いに完全に平等なのです。こうして、わたしたちがキリストの者であればわたしたちはキリストのからだである教会の一部であり、キリストと同様にアブラハムの子孫、すなわち神の民であり、約束による神の祝福の相続人、すなわち神の子どもなのです。

     今は終わりの時代です。終わりの時に、永遠の神の国が完成する。終末に生きるわたしたちは、今、もうひとつの新しい時代、すなわち永遠の神の時代の到来を待ち望む希望をいただき、わたしたちの眼を永遠の神の国に向けて歩んでいきたいと思います。