カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 信じる者しか救わないせこい神様?

    2025年10月26日
    創世記書15:5~6、ローマ4:1~12
    篠﨑 千穂子_牧師

     今日は10月26日、私たちプロテスタント教会にとって重要な宗教改革記念日の週です。1517年10月31日、マルティン・ルターが95か条の提題をヴィッテンベルク城の扉に掲げたことが宗教改革のきっかけとなりました。私たちが母国語で聖書を読むことができるのも、その恩恵のひとつです。今日はルターが特に愛した「ローマの信徒への手紙」を通して、プロテスタント教会の三大柱――①「聖書のみ」②「信仰のみ」③「万人祭司」――のうち、特に「信仰のみ」について考えてみたいと思います。「信仰によってのみ人は義と認められる」という「信仰義認」の教理は、この書から生まれました。

     先日、友人に「信仰義認のローマ書、どう思う?」と聞いてみたところ、「信じる者しか救わない神様を拝むのはせこいって歌があるよ。割とそっちの方がしっくりくる。」という返答がありました。私も少し揺らいでしましました。そこで今日は、「信じる者しか救わない神様は本当にせこいのか?」を、ローマ書の信徒への手紙第4章をもとに考えたいと思います。

     「義と認められる」とは何でしょうか。日常で使う言葉ではありませんので馴染みがありませんが、ローマの信徒への手紙第4章では25節中13回もこの表現が登場します。著者パウロは、「信仰によって義と認められた人」としてアブラハムとダビデを挙げています。しかし、私から見ると、この二人は「義と認められる人」とは思えません。

     アブラハムは70代で神から子孫の約束を受けましたが、妻サラは高齢で子どもを望める年を越えていました。また当時の社会では子どもを授からないことは呪いの象徴でした。けれどもアブラハムは望めない人生を諦めず、神の約束に人生を賭けてみました。このことは本当に立派です。けれども彼はその後、女奴隷ハガルによって子をもうけたり、サラを王アビメレクに「妹」として差し出すなど、神と人に対して多くの失敗と不誠実を行いました。「信仰の父」と呼ぶには程遠く、むしろ自己保身や妻への不誠実さが目立ちます。ダビデもまた、人妻バト・シェバとの不倫や夫の死を招く策略を行うなど、倫理的には到底「義」と言えません。しかし、パウロはこの二人を「信仰によって義と認められた」と評価しています。この違和感を理解するためには、「義」と「信仰」の定義を改めて考える必要があります。

     国語辞典では「義」は「道理にかなったこと、人道に従うこと」とされていますが、聖書において「義」とは新約では法廷用語、旧約では「神と被造物との健全な関係の回復」を意味する言葉です。つまりローマ書でいう「義」とは倫理的正しさではなく、「神と被造物との関係が正式に回復すること」をいいます。「認められる」は会計用語が由来で「評価される」という意味です。したがって「義と認められる」とは、「神の評価によって神との関係が正式に回復されること」と言えるでしょう。

     アブラハムやダビデは決して「良い」人ではありませんが、神は彼らの信仰、すなわち「一度でも人生を神に賭ける」と決断したことを評価し、関係を回復しました。信仰とは、根性論や汗と血にまみれた努力ではなく、一度神に人生を賭ける決心です。アブラハムの創世記15章の決心、ダビデの悔い改めの祈りを、神は評価してくださったのです。つまりローマ書が伝えたい「信仰によって義と認められる」とは、「一般的には『良い』とは評価されない人の信仰告白を神が過大評価し、ご自身との関係を正式に回復してくださること」です。人の目からは取り返しのつかない過ちを犯した二人でさえ、神の過大評価により義とされるのです。だから、「『信じる』者を救ってくださる神様」は決してせこい方ではありません。「信じる者しか救わない神はせこい」と思ってしまう私たち人間の神認識が極めてせこいだけなのです。

     とはいえ、この箇所は過ちを繰り返すことを奨励するわけではありません。神の憐れみに甘えて過ちを繰り返すことは、自らを生きづらくします。一方で、アブラハムやダビデ、イスラエルの不真実にもかかわらず、神は変わらず真実を行い続けます。ローマの信徒への手紙第4章23~24節は「義と認められた」ことが、アブラハムだけでなく、私たちにも及ぶと教えています。私たちは不釣り合いな評価で神との関係を回復され、自由な意思の中で神の国をどう生きるかを委ねられています。

     さあ、「義と認められた」皆さん。私たちは今日、「信じる者しか救わない神様はせこい」と呟きながら生きるでしょうか?それとも「私の信仰はせこい。でもその私を義と評価してくださる神は真実だ。」と告白し、人生を神に賭け直していくでしょうか。