マリアの賛歌
2025年12月21日
イザヤ書9:1,5~6 ルカ1:39~56
関 伸子_牧師
神の秘められた計画は人間の知恵を超えていますから、即座に人間には理解できません。マリアであっても、神の計画を直ちに理解できませんでした。天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方」という挨拶に戸惑ったマリアに対して、天使が「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と説き聞かせても、マリアは「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と答えています。
しかし、天使がさらに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・・・・神にできないことは何一つない」と説き及んだとき、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」と答え、神の救いの業に入ることを承諾しています。
マリアの心を戸惑いから承諾へと変えた力がどこにあるのかは謎です。「私は男の人を知りませんのに」と答えたときのように、人間的な可能性に縛られているかぎり、承諾へと向かうことはありえません。むしろ、「神にできないことは何一つない」と説く天使の言葉に心を向けるとき受諾への道が開かれます。だとするなら、マリアを変えた力は、神の力への信頼を呼び起こさせたことにあったはずです。
こうして神の救いの計画はクライマックスを迎えます。天使ガブリエルは、マリアに「身ごもって、男の子を産む」と知らせた後、マリアは、メシアの到来を準備させる男の子を身ごもっている親類のエリサベトを訪ねるために、ユダの町へと急ぎます。マリアが立ち上がった時、何が起こったでしょうか。ルカは、イエスとヨハネの出会いを、すでにその母たちの出会いにおいて確信しています。マリアの挨拶を聞いた時、エリサベトの胎内の子が喜び躍り、エリサベトが聖霊に満たされるという変化が起こります。まだ生まれていないヨハネが、エリサベトの胎内で躍ったことは、バプテスマのヨハネが、すでにイエス・キリストを指し示しているのではないでしょうか。
マリアがエリサベトに述べるあいさつは祝福です。天使ガブリエルから、神が不妊の女エリサベトを顧みて子どもを授けた、そこに働くのは神である、と聞いたマリアは急いでユダの町に向かい、神の祝福をエリサベトに伝えるのです。祝福を伝えられたので、エリサベトの胎内の子どもはおどり、エリサベトは聖霊に満たされて賛歌を歌います。「あなたは女の中で祝福された方です。体内のお子さまも祝福されています」。
マリアはエリサベトの祝福に答えて、主をたたえてうたいます。このマリアの賛歌は、革命歌と呼ばれます。革命の歌だというのです。その理由は、51節、52節、53節と読んでいくだけでおわかりになると思います。おごり高ぶる者は追い散らされ、富んでいる者は空腹のまま帰らされる、そういう時が来る。これは権力ある者、富んでいる者に対するさばきの歌であり、その権威を、ひっくり返す革命の歌だというのです。そのことは事実であると思います。しかし、「権力者を引き下ろしたその座に身分の低い者を代わりに座らせた」とか、「富める者から奪い取った良いもので空腹の者を満足させた」とは書いていません。マリアの賛歌が歌う革命は、政権交代とは違っています。
神が登場することによって、今まで高いとされていた者が低く見られることになり、今まで低いとされていた者が高いと見られるようになります。マグニフィカットの霊的な強さは、神の無償の愛のなかにあることを私たちに教えてくれます。マリアの賛歌が私たちに思い起こさせるイエスの福音に私たちは誠実でありたいと思います。わたしたちもマリアのように主を賛美して歌うことができるのです。
福音を聞く者たちには、つねに、主を経験する喜びがあります。この喜びのよって、マリアの心は開かれ、主がマリアに宿ることを受け入れる備えをあらたにします。「その御名は聖」(49節)。マリアはユダヤ人として旧約聖書による教育を受けていました。ですから、神があらゆる被造物を越えて、無限に高く偉大な方であることを「聖い」ということばで表すことを知っていたに違いありません。賛歌の中心点で、神が聖なるお方であることが宣言されます。神は慈しみに満ちておられるがゆえに、すべての者を優しく受け入れられます。すべてのものは、神と神の無償の愛に由来するのです。
数年前、東京説教塾での学びを通して旧約聖書学者の左近淑(きよし)先生のクリスマス説教を聞く機会がありました。そこで詩編第113編と今日のルカ福音書の箇所を解き明かしていました。詩編第113編6節において、天におられる主なる神が「天にあっても地にあっても 低きに下って御覧になる方」とあり、「低く下って」という言葉は、昔の文語訳聖書で「己を卑しくして」となっていますし、「身をかがめて」とも翻訳されています。 左近先生は、本質として愛は落ち着かない、愛は動くということを論じながら、「大きなところに、どっしりと落ち着かない」と語られました。ルカが指し示した神は、私たちのために大きく動きだされた神です。
神が大きく動いて人となられました。神が人となられた「受肉」という出来事がクリスマスに起こったのです。この私のために、この私たちのために、神が大きく動いてくださったことを知る時がクリスマスです。神が大きく動いてくださった出来事を喜び、その喜びを多くの人たちと分かち合うことをわたしたちの喜びとしたいと思います。お祈りをいたします。