汚れはどこから来るのか
2025年11月2日 創世記4:1~11、マルコによる福音書7:14~23 関 伸子_牧師 マルコによる福音書第7章において、ファリサイ派の人たちが主イエスを問いつめたのは、弟子たちが「汚れた手」でパンを食べ始めたからです。私たちにとって、「汚れた手」といえば、洗わない手のことであるのは自明ですが、マルコはわざわざ「つまり洗わない手」と言い換えています。このような説明が必要だったのは、「汚れた」と訳されたギリシア語〈コイノス〉には「汚れた」という意味がな[…続きを読む]
信じる者しか救わないせこい神様?
2025年10月26日 創世記書15:5~6、ローマ4:1~12 篠﨑 千穂子_牧師 今日は10月26日、私たちプロテスタント教会にとって重要な宗教改革記念日の週です。1517年10月31日、マルティン・ルターが95か条の提題をヴィッテンベルク城の扉に掲げたことが宗教改革のきっかけとなりました。私たちが母国語で聖書を読むことができるのも、その恩恵のひとつです。今日はルターが特に愛した「ローマの信徒への手紙」を通して、プロテスタント教会の三大柱――①「聖書[…続きを読む]
2025年10月19日 「目を覚ましていなさい」イザヤ書27:12~13、ヨハネの黙示録7:9~17 関 伸子_牧師 ヨハネの黙示録は新約聖書の中唯一の黙示文学書です。黙示文学は、現在の悪の世とその終わりの近づきつつある模様、来るべき輝かしい情景、神の勝利、メシアの来臨、信徒の救いなどを、意象や幻、獣や数字などによる遇喩によって描いています。ヨハネの黙示録もこのような方法によってイエスの再臨を描いたものです。 この書が書かれた当時の人びとは、当然のこと[…続きを読む]
神のふるまい
2025年10月12日 詩編90:13~17、テサロニケ二3:6~13 関 伸子_牧師 パウロはかつてテサロニケを訪問した際、信徒たちにキリスト者の日常生活について教え、またテサロニケの信徒への手紙一でも書き記しました。しかし、彼らの中には誤った終末信仰によって、艱難のゆえに彼らが熱狂的にキリストの再臨を待望し、日常生活の責任を疎かにして怠惰な生活をしている者がいるとの情報を得たので、パウロは再びその教えを厳しい調子でここに繰り返します。 この手紙の中[…続きを読む]
主に従うために
2025年10月5日 詩編119:33~40、エフェソの信徒への手紙5:1~5 関 伸子_牧師 エフェソの信徒への手紙第5章1節に「神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい」とあります。私たちは神に愛されている神の子どもなのです。私たちは神の愛を体験的に知った時に、神の子とされ、自分が愛されていることを自覚した時から、神を愛するようになったのです。 それでは、見えない神を愛するとは、どういうことなのでしょうか。「神の戒めを守ること[…続きを読む]