恵み深い主に感謝せよ
2018年9月30日
詩編107:1~9、23~32、ルカ8:22~25
国立のぞみ教会 唐澤健太 牧師
「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と/主に贖われた人々は唱えよ」(1−2節)。「共同の働き」を展開してきた東京三教会が初めて合同主日礼拝を実施するのは、「主なる神をほめたたえる」ために他ならない。集う者たち一人一人に固有の「人生の旅路」がある。その旅路の最先端が「今ここで」交わっているのだ。これは神の不思議な御業に他ならない。私たちが共に集ったのは、私たち一人一人が「主に贖われた」からだ。主が私たちを様々な苦しみがから救ってくださり、私たちを国々の中から「東から西から、北から南から」(3節)集めてくださった。
私は高校時代卒業後にこれからどのように生きていけばよいのか途方に暮れた。「彼らは、荒れ野で迷い/砂漠で人の住む町への道を見失った。飢え、渇き、魂は衰え果てた」(4節)。イスラエルの民が荒野をさまよい歩いたように、私も道を失った苦しみを経験した。詩編は10節、17節以下には「闇と死の陰に座る者/貧苦と鉄の枷が締めつける捕らわれ人となった」、「闇と死の陰」、「死の門」という様々な苦難に苦しむ人々の姿がある。23節以下には大海で嵐に遭い「「苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、ゆらぎ、どのような知恵も飲み込まれてしまった」(26−27節)。命の危機、魂の危機、人生の危機が色々な形で歌われている。このような苦難に私たちは人生の旅路において翻弄される。
しかし、信仰の詩人はこの詩編において「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救ってくださった」(6節)と繰り返し告白している。主は、彼らを苦しみの中から贖ってくださった。そしてこれからも主は「人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」のだ。
神の民とは、神様のこの不思議な物語を経験して来ている者たちのことだ。神様が私たちに「驚くべき御業を成し遂げてくださる」方を知る者たちのことだ。神の民が共に集うのはこの世界に対して、神様がすでになさったことをほめたたえるために他ならない。 そして神が今なさってくださっていることに感謝するために集まる。また、これからも主が「人の子らに驚くべき御業、不思議な御業を成し遂げられる」ことを信じるがゆえにキリスト者は共に集まり主を賛美するのだ。
「魂が衰え果て」、感謝などできない私たちがいる。しかし、私たちはなお主イエスのゆえに「感謝を先取り」(瀬底正義牧師)して生きることができるのだ。主イエスを抜きに「感謝の先取り」などいってもそれは戯言だ。しかし、主イエスはあの十字架の死を、罪の力を、暗黒を打ち破られた。主はいま生きておられる。だから私たちはなお苦難においても「主に感謝せよ」という呼び掛けに応えることができるのだ。
日本中会初代牧師の吉崎忠雄先生は中会50周年記念礼拝の時に挨拶に立たれた時に、たった一言だけ語られた。「神は愛なり。ありがとう」。神学生一年目の私の心に刻まれた一言であった。道を見失うことも、暗黒も、荒波も伝道者生活で経験されたに違いない。教会が倒れるかどうかの不安な時も過ごされたに違いない。しかし、すべてを含めて「神は愛なり」と告白し、主に感謝をささげることが、神の民にはできるのだ。「恵み深い主に感謝せよ」。アーメン!