イエスの焼き印を身に受けて
2019年7月14日
イザヤ書66:10~14、ガラテヤ6:11~18
国立のぞみ教会 唐澤 健太牧師
「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(17節)。パウロは手紙を閉じるにあたって、自分が何者であるのかを改めてガラテヤの人々に告げた。焼き印は英語では「ブランド」。その印によってどの店のブランドがわかるように、パウロは「イエスの焼き印を身に受けている」のだ。パウロは、わたしはイエスのものだ。もっといえばわたしはイエスの奴隷だ、と告白しているのである。
パウロのこの告白には自負するものがあったと思われる。割礼を必要だと言い広める者たちは、「ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせよう」としている。律法が重要だと言いながら、本質は、自己保身に過ぎないことをパウロは見抜いていた。それほど十字架はユダヤ社会にあってはつまずきであり、呪いであったのだ。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)とパウロは語ったのだ。
それゆえパウロは「迫害」を受けた。何度もむちで打たれたことがあった(Ⅱコリント11:24以下)。パウロの身体には多くの傷があったに違いない。私の身体にも自転車の事故で負った右肩の傷、小学生の頃に左腕に大怪我をした。いまもその傷がくっきりと残っている。その他にも大小の傷がそここにある。傷を見ればその時の状況がいまでも思い出すことができる。傷と記憶は結びついている。パウロもきっとそうだったと思う。背中、腕、足、腹回り。そこら中に「傷痕」があっただろうし、受けた傷をみれば、ああこれはあの時の傷だ。あの時の鞭打たれた時だ、これは石を投げられたときだ。その時の光景、痛み、記憶が傷と共に生々しく残っていたに違いない。
「焼き印」は「スティグマタ」という珍しいギリシア語が使われている。英語では聖人などに現れる「聖痕」という意味で辞書に出てくる。手や額に十字に印が現れるというものだ。他方、語根を同じくする英語の「スティグマ」には烙印、不名誉、汚名、恥辱という意味がある。
パウロはイエスの十字架を伝えるために受けた傷、侮辱と、キリストが十字架で受けた苦しみが一つとされる。そんな思いがあったのだと思う。パウロが十字架のキリストを宣べ伝えるがゆえに受けた「スティグマ」こそ、パウロにとっての「スティグマタ」、焼き印であり、聖痕であったのだ。深いところでのキリストに従う誇り。このわたしこそ「イエスの焼き印を身に受けている」。誇ることは愚かかもしれないが、パウロにとって譲ることのできない誇りであった。それは単にパウロが一生懸命やっているからということではなく、「福音」、良き知らせの根幹にかかわることであった。キリストの死を無駄にすることを、パウロは絶対にゆずることができなかったのである。
11節でパウロは「わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」(11節)と記している。ここまで口述筆記をしてきたが、最後は自分の手で書いているということだろう。パウロは目が悪かったとも、手が不自由だったとも言われている。だから字を書くのに「大きな字」になったと説明される。そうなのだろうと思う。しかし、私たちは大事なことを書くときあえて「大きな字」を使うことがある。パソコンでも強調したいところをフォントを変えたり、太くしたりする。パウロはここで書くことは本当に強調したいという思いがあったのではないか。
キリスト者とは「イエスの焼き印を身に受けている」者である。私たちは洗礼を受ける時に、「焼き印」を受けたのだ。絶対に消えることのない印をつけられた。たとえ神の前に私たちが不誠実であり、神を裏切るようなことをしたとしても、絶対に取り消されることのない「焼き印」なのだ。神はイエスの十字架によって、その救いを私たちに与えてくださった。それはただただ神の恵みなのであり、それが福音なのだ。私たちが神にふさわしいから「合格」のしるしをつけられたのではない。割礼を受けたことで私たちは神に「合格」をもらうのではない。ただイエスの十字架によって、私たちは神の憐れみによって神の子とされたのだ!
「十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。世とは、十字架(贖い、許し)を必要としない世界。律法によって、自分の力、自分の功績を頼りに、自らの価値を決定し、人の存在の値踏みをする世界である。しかし、パウロは、その古い秩序を十字架につけて死に至らしめた。キリストにある私はもうその古い肉の世界に生きるものではない、パウロはそういっているのだ。私たちは、この恵みを無駄にしてはいけない!
私たちは一体何を誇り生きるのか。あなたはイエスの「ブランド」品なのだ。世の権力者たちが色々な思惑をもって立ち振る舞っているが、私たちは「イエスの焼き印を身に受けた」者として、「新しく創造された」者として、この世にあって生きていくのだ。