イエスの招きに応えて
2021年1月31日
詩編119:9~16、マタイ5:17~20
関 伸子牧師
主イエスが語られた福音は、当時のユダヤ人にとっては、意表を突くものでした。それでユダヤ人はイエスの語られたことを理解しかねていました。マタイによる福音書第5章17節以降、主イエスは権威をもって「よく言っておく」、「しかし、私は言っておく」と、繰り返しながら語られます。その始めにまず、マタイ教会の綱領と言い得ることを語られます。「私が来たのは律法や預言者を排しするためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(17節)。
ここで主イエスが言われる「律法や預言者」とは、「預言者たちの律法」を意味します。律法は預言者たちによって与えられたからです。それを「完成する」とは、どう理解したらよいのか。続く18節には「よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない」とあります。これと結びつけて「完成する」を考えるなら、「イエスは旧約律法を一字一句たがえることなく実行した」という意味でしょう。しかし、このような解釈は21節以下とうまく合いません。しかも、22章40節では「〔神への愛と隣人への愛、〕この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」と言われている。主イエスは律法を新たな視点から捉え直しているのです。
雨宮慧神父はここの注解でこう書いていました。「そこで注目されるのは、「完成する」の対語「廃止する(カタリュオー)」である。これはカタ(完全)とリュオー(分解する)の合成語であり、「ばらばらにする」とか「ずたずたにする」を意味する。とすると17節を次のように解釈することも許されるであろう。捕囚から帰還後、ユダヤ教が硬直化するとともに、律法が本来持っていた精神を忘れ去り、それをずたずたにしてしまったが、イエスはむしろその精神が現れるようにと新たな息吹を吹き込んだ。律法は、もともとは、神への愛と隣人への愛を表す手段であったが、人間社会や人間自身の現実に合うように低められてしまっていた。それをイエスはもとの高みに戻し、本来の精神を思い出させた。こうして、ばらばらに分解されていた個々の掟が、神と隣人への愛という一点に再び結ばれた。ひとつひとつのおきては廃止されたのではなく、愛とつながり、元来の意義へと戻されたのである。」
律法の本来の精神は、それによって神を神とし、律法に現わされた神のみ心を知ることにあります。ところが、ユダヤ人たちは律法を文字通りに守ることが、その心を問うことよりも優先される。律法自体は神ではないのに、あたかも律法が神のようになってしまう。つまり律法という名の偶像を拝んでいるのです。
人の救いはイエスの血のあがないにかかっている(20:28)。罪のない神の子、キリストが、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で刑罰を受け、神ののろいを取り除いてくださったのである。そして、キリストを信じる者には、そのキリストの真実により、義が与えられるようにしてくださった。キリストは、この計画を実現するためにこの世に来られたのである。しかし、行いはどうでもよい、というのではない。イエスのあがないにより、罪を赦されたわたしたちは、新たな戒めを、身をもって実行したイエスからの招きとして受け止める。
問題は、イエスの弟子であること、イエスへの服従である。イエスに服従するとは、イエスの「命じておいたいっさい」(マタイ28:20)を守ることにほかならない。今日の箇所は、まさに、この服従への呼びかけなのである。したがって、イエスの戒めは、常に今、ここに生きるわたしたちを、イエスとの出会いに招く。
先ほど詩編第119編の9節から16節をお読みしました。ここでは、全体として、律法を宝のように大切に思う内面の姿勢が詠われています。ただひたすらに「あなたの御言葉」「あなたの戒め」「あなたの掟」「あなたの口」「あなたの定め」「あなたの道」に教えられ、それによって生かされ、主の教えを共に聞く友たちと、日々、そのように歩む者でありたいと思います。
マタイ福音書第5章20節の「義」とは、このように、律法が実現しようとしていることであり、神の前における正しさである。主イエスのご生涯は「愛」の一言に集約されます。「愛は律法を全うする」(ローマ13:10)とパウロは言います。「律法や預言者を完成するため」とあります。「律法」と「預言者」は、旧約聖書の主要な部分ですから、この言葉で旧約聖書全体を代表させていると言えるでしょう。イエス・キリストは旧約聖書を超えたお方です。まさしく、旧約聖書を完成されたのである。このイエス・キリストにおいて、神に愛されていることに促されて、私たち自身もこの愛に生き始めること、それが律法の深い意義であり、律法の精神なのです。お祈りします。