キリストを通して
2021年3月24日
ネヘミヤ書2:1~18、コリント一12:1~13
関 伸子牧師
パウロはコリントの教会の人々の過去を想起しつつ、今日の箇所で真の霊を見分ける基準を明らかにする。霊のことというのは、大変分かりにくいことであります。目に見えない、ということも、そのひとつの理由でしょうけれども、信仰生活ということについても、目に見える、手で触ることのできることに心を奪われ、見えない神との交渉、その神から力を受けることについては、余り考えようとしないのではないかと思います。
パウロは、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」(12:3)と宣言する。これは私たちの信仰の根本である。しかし、これは困難な道である。なぜなら「イエスは主である」とは、「他のすべてのものを主としない」ことだからである。主イエスは「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われるが、もし富むことが人生の目的になるなら、富という神を拝んでいるのである。 パウロは、イエスが唯一の主であると気づくには、聖霊の助けがどうしても必要だと言う。当時のユダヤ教神学とギリシア哲学の極みまで学んだパウロが、学問ではなく聖霊によらなければと言うのである。その信仰の熱心さによってもなお、イエスを主と告白できなかった彼は、聖霊の導きによらなければできないと告白する。
「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、誰も誇ることがないためです」(エフェソ2:8)。もちろんその過程において人の力が作用することは言うまでもないことですけれども、それも神が用いたものなのです。先週、朝の祈祷会でどのように信仰告白に至ったか証しされた方も人を通して霊によって導かれたと語っていました。したがって信仰は霊の賜物なのです。
このようにパウロは、私たちがキリスト者であるということ自体が聖霊の働きによると述べた後に、キリスト者一人ひとりが持っている能力は、すべて聖霊から分け与えられたものだと教えます。「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)。「全体の益となるため」をルターは「みんなの役に立つため」と「みんな」と言う語を補って訳しています。
ネヘミヤ記第1章に故郷エルサレムの再建を願ったネヘミヤが、その計画をペルシャ王アルタクセルクセスに直訴し、受け入れられたことが記される。そのすべてを動かしたのは神の摂理であった。そして、そこにはネヘミヤの祈りがあった。第2章で、そのネヘミヤを動かした神の感動が、エルサレム周辺の住民に及んでいく。2章後半の物語の鍵となる言葉は「神の恵み深い手」と捉えることができる。人々は異口同音に答えました。「さあ、再建に取りかかろう。」と。そして「この良い仕事に着手した」のです。この部分の英訳はThey encouraged themselves for the good cause.(彼らは良い事のために彼らの手を強くした)となっています。ネヘミヤに賛同したのでもなく、強制されたのでもなく、神の感動を受けて、自発的、自主的に再建に取り掛かろうと意思表示したのです。すばらしいことだと思います。
新約において、私たちは教会を建て上げることに召されています。それは、目に見える会堂建設ではなく内面的なキリストの体である。「賜物」も「務め」も「働き」もすべて「同じ霊」によって分け与えられたものであり、神がすべてを分け与えています。しかも、一人ひとりに霊が働いて、さまざまな賜物を与えるのは、「全体の益」となるためであるとパウロは考えています。
一人ひとりがその人に適した働きがある。ここでパウロが言おうとしているのはキリストの体なる教会のあり方である。パウロの述べる「一つ」は人が作り出すのではなく、神がキリストを通して作り出す全体です。パウロにとっては「一つ」がすべてなのです。
賜物の力の出所が一つである、ということはやはり重要なことであると思います。その上に大事なことは、霊が思いのままに各自に分け与えるということです。そうならば、私たちの方は、聖霊の意のままに動こうとする謙虚さがなければなりません。教会で、神から与えられている務めを行うのに、神のみ心のままにするのが大切ですけれども、さらに言えば、霊の働きが十分になされるように、心がけなければならないのです。主イエスは、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)と言われた。「霊」は「風」をも意味するから、霊の自由な働きを主イエスも説いたのである。この霊の働きに身を委ねつつ、ここに集められた者たちとして、賜物をささげて行きたいと思います。祈りをいたします。