カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 天からの声を受け入れる

    2022年1月9日
    イザヤ書55:1~11、マルコによる福音書1:9~11
    関 伸子牧師

     カトリック教会では、1月6日公現日の後の最初の主日に「イエスの洗礼」を祝い、これをもって降誕節の終わりとしています。今日はマルコ福音書からここに与えられている固有のメッセージを聴き取りたいと思います。

     「神の子イエス・キリストの福音の始め」。それはどこから語り始めるべきものなのでしょうか。マルコは、洗礼者ヨハネの授ける洗礼から始めました。主イエスは公の生涯を、洗礼から始められました。「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)。マルコは簡潔に客観的事実としてこのことを記します。イエスの洗礼が語られる。イエスの来訪の目的は、ここではマタイの場合のようには強調されていません。マルコはユダヤのベツレヘムにおけるイエスの誕生については弁明せず、イエスを「ガリラヤのナザレ」の出として紹介します。こうして、5節で、洗礼者ヨハネがユダヤと結び付けられているのに対して、イエスはガリラヤと関係づけられます。

     「そしてすぐ、水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10~11節)。これは誰の目にも見ることのできた客観的事実だったのでしょうか。この箇所をよく読み直すと、マルコは群衆の存在に全く触れていないことに気づきます。ルカの並行記事(3:21~22)においては民衆に触れています。マルコでは「御覧になった」と記されており、イエスの心に繰り広げられた情景であると言うことができます。

     イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、イエスは「天が裂けて霊が鳩のように」降って来るのをご覧になり、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声を耳にします。この言葉は第二イザヤでは神が「主の僕」に語りかけた言葉です。

     イザヤ書第55章1節において、天におられる方が「渇きを覚えている者」に「水のところに来るがよい。・・・・・・私のもとに来るがよい」と呼びかけます。彼らが銀を支払って求めようとあくせくしているものは、糧にならず、飢えを満たさないものだからです。神の言葉だけが魂に命をもたらします。しかも、ダビデを立て「諸国民への証人」とされた方は、今は捕囚地から帰還する民を証人として立て、誰が真の神であるかを告げようとしています。それを知った諸国民ははせ参じることになります。しかし、異邦の王であるキュロスがなぜ解放者になりうるのか、侵略者に決まっていると不安がる捕囚の民には、預言者のメッセージは信じがたいものと映ります。そこで第二イザヤは、神の思いと道は人間のそれをはるかに超えていることを思い起こさせます。その神が語る言葉はむなしく戻ることなく、必ず出来事となり、神が「与えた使命を必ず果たす」と説き聞かせます。天から降る雨や雪の背後に神を見ることができるなら、天は雨や雪の出所では終わらずに、人間の思いを高く超える神の偉大さを示す象徴に変わっていきます。

     全く人間の罪しか見えない場所で、その罪人とともにいて、罪を負ってくださる、そのようなところに神を認め、そのようなお方を神の子と信じることは、人間の知恵ではできません。それを告げるのは、ただ上からの聖霊にほかなりません。

    だからマルコは次に、「そしてすぐ、水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」と、聖霊の到来を告げるのです。ここには、三位一体の神があります。「私」と言っている父、そして今、罪人の側に立つ御子イエス、それを告げる聖霊。今、天からの声がします。

     マルコは、弟子として生きようとして苦しんでいる私たちのような人間のために、この福音書を書いています。マルコは、私たちが弟子であるために何にもまして必要なものは、弟子であることの条件を細やかに求めることばではなく、約束に基づく信頼関係の確信であることを知っています。主イエスが、ご自分が神の子であり、神に愛されており、神の心の喜びであることを知るように、私たちも私たち自身についてそうであることを知ります。主イエスが何者であるかを告げる雷鳴のようにくだってくる神のささやきの中に、私たちは私たち自身についての真実を知るのです。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(11節)。

     まさにこれが、教会が、洗礼において私たちに与えてくれるものなのであります。絶望のただ中にあったとしても、私たちが信頼できるただ一つの希望であります。主イエスの語ることに耳を傾け、真理をその声を受け入れる者でありたいと思います。お祈りをいたします。