人を見る目を与えられる
2022年7月24日 列王記上10:1~13、マルコによる福音書8:22~26 関 伸子牧師 東小金井教会が最初の礼拝をささげてから58年経ち、今日もここで礼拝をささげることができる恵みを感謝します。私たちは真理を悟るとき、開眼したと言います。主イエスの真理に目が開かれたら、私たちの目はどこに注がれるのでしょう。それは神の真理です。 マルコ福音書の今日の箇所は、「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたい[…続きを読む]
神の言葉をたたえる
2022年7月17日 エレミヤ23:23~32、ガラテヤ5:2~11 関 伸子牧師 パウロはガラテヤの教会の信徒たちに語ります。「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません」。ここで、自由を得させるとは、何をしてもかまわないという意味ではなく、不安からの自由と解釈してもよいと思います。私たちはいろいろな不安を持っています。そういう不安から自由にされるということです[…続きを読む]
神の言葉は永遠に生きる
2022年7月10日 エステル記4:10~5:8、使徒言行録13:13~25 関 伸子牧師 使徒パウロの第一回宣教旅行は、聖霊に送り出されて、アンティオキアの教会の熱い祈りに支えられて始まりました。 「パウロとその一行は、パフォスから船出したパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」(13節)。これまでは「バルナバとサウロ」と言われてきましたけれども、これからはパウロが一行の指導者になります。パウロの第一回伝道旅行[…続きを読む]
主イエスに遣わされて生きる
2022年7月3日 アモス書7:10~15、マルコ6:1~13 関 伸子牧師 宣教への派遣は、神による御業です。それは、自分の意志や願望によるものではなく、神の召しによる派遣です。預言者アモスは、神の御声を聴いて召しを受けました。預言者でも、預言者の弟子でもなく、単なる農夫にすぎないアモスですけれども、神が彼を「取り」(アモス7:15)ました。ここでの「取る」は「選びだす」の意味ですけれども、「選ぶ」と言わずに、「取る」を用いたのは、一介の農夫を預言者と[…続きを読む]