つべこべ言わず故郷へ行こう
2022年10月23日
ゼカリヤ13:7~9、マルコ14:26~31
石塚 惠司牧師(めぐみ教会)
過越の晩餐を終えると、酒イエスは弟子たちとオリーブ山麓への道を歩き始めます。今日の箇所はその道中の出来事です。今日は弟子たちに向けて語ったイエスの二つの言葉に焦点を当てて読みましょう。一つは27節、もう一つは28節です。
1.「イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆、(私に)つまずく。
『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからだ。(27節)
弟子がつまずく、とイエスは断言されました。
(1)「つまずく」と表現される語は道に邪魔するものを置く、罠を仕掛ける、の意。スキャンダルの語源となった語です。弟子の立場を失うようなことが起こる、という意味でしょうか。普通に考えれば、弟子のつまずきは弟子自信の弱さと考えられます。しかしこの場合、そうではない、とイエスは言われます。
(2)つまずきの原因は預言によって示される(ゼカリヤ書の言葉)
イエスは弟子たちに言われた。「・・・『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからだ。」(14:27)
「私」は誰か。そして「羊飼い」は、「羊」は? 羊飼い=イエス・キリスト、羊=弟子たち、では私=?それは神です。神が羊飼いであるイエス・キリストを打つ。それによって羊は散らされる、とイエスは語られたのです。
ここのポイントは、弟子たちがつまずき散らされることの原因に触れている、ということです。ここでイエスが語ったことは重い。なぜなら羊飼いであるイエスを打った「私」とは神だからです。ここに弟子たちのつまずきの特殊性があります。
ペトロ、そして弟子たちにとって、受け入れ難いことが起ころうとしていた。それが救い主イエスの逮捕であり、これから始まる裁判であり、十字架でした。これは、ペトロがもう少し勇気があったら裏切らなかった、という問題ではなく、「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」(29節)と言って気負って頑張れる問題ではなかったのです。こうしてイエスの言葉につまずいたのはペトロだけではありませんでした。こうしてペトロたちは、イエスにつまずき、イエスから離れる、という現実に向かい合うことになりました。
弟子として生きる、というのは「やるぞ!」という気合いで務まるものではないのです。ですからイエスはつまずいてしまう弟子たちに向かって戒める言
葉を何一つ語っていません。主イエスは「こうしなければならない」という弟子たちの態度を徹底的に砕かれました。そして新しい弟子再生をお考えだったのです。
今日注目する第二の言葉に移りましょう。
2.「しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(28節)
ペトロたち弟子を捨てない、という主イエスの弟子への愛、希望がこの言葉です。ペトロたちは、信仰は神に徹底的に仕え、神を喜ばせる献身的なものだ、と考えていました。しかしそんな思い上がりは打ち砕かれるのです。弟子であるのは、ただイエスの声に聞き従うことです。「私の約束の言葉を聞きなさい。信頼しなさい。」と。
ガリラヤ、そこは弟子の故郷であり、イエスの弟子になった場所。そこに行く、ということは、主イエス・キリストの弟子として新しいスタートを切るためでした。
(1)ガリラヤへ帰ろう
ガリラヤ、そこは弟子たちの生まれ育った故郷であると同時に心の故郷です。初心に帰ろう、との静かな呼びかけですが、イエスの心はもっと強い思いだったのではないでしょうか。それで私は『つべこべ言わず故郷へ行こう』と説教題をつけました。ペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブに「漁師に戻りなさい」、マタイには、「収税所に戻って税金取りの仕事にもどれ」と言ったのか・・・。そうではないでしょう。イエスに呼ばれた時のことを思い出すだけでなく、希望を持て、「そこで私が待っている」と呼びかけでしょう。弟子がすべきこと、それは「主イエスの言葉にだけ聞いて従うこと」です。
(2)今、主イエスはわたしたち一人ひとりを呼んでいる!
主イエスは今あなたに呼びかけています。「私の言葉に従って故郷、ガリラヤへ帰りなさい。私があなたを選んだ時のことを思い出しなさい。そこから新しい人生が始まりますよ。」。思いがけないこと、辛いこと、苦難が私たちの人生に日々押し寄せてきますね。しかし、主イエスは私たちを見捨てず、人生の先で私たちを待っていてくださるのです!
祈りの時に読んだ御言葉
「神の賜物と招きは取り消されることがないからです。」(ローマの信徒への手紙11章29節)。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。」(ヨハネによる福音書15章16節)