自由になる、主イエスによって
2022年10月30日
創世記49:8~17、ルカによる福音書11:37~44
関 伸子牧師
福音書記者ルカは、主イエスが食卓に招かれることを繰り返します。主イエスはファリサイ派の人の招きで食卓に着かれます。共に食卓を囲む人々がいる。そこでこそ、これらの人々は互いを知り、出会い、また、反発しました。
「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、驚いた」(ルカ11:38)。具体的には手を洗わなかった(水の中にひたさなかった)からです。もちろん衛生上の理由からではありません。そうではなくて宗教的な清めにかかわる問題でした。ただ食前に手を洗うこと自体は律法に根拠はありません。律法学者の言い伝えによって定められた習慣でした。日常生活においてファリサイ派の人々や律法学者たちは、異邦人たちとの接触があり得るから、手を洗うことによって異邦人との断絶を示したのです。
主イエスご自身は洗っていませんでした。むしろ食前には、祈りをささげていました(マルコ6:41)。そのイエスの弟子の中に、師と同じく手を洗わない者だけでなく、清めの言い伝えに従って手を洗っていたものもいたのです。イエスはそれをとがめていませんでした。少なくとも洗っている者にそれを止めさせることはなさっていなかった。そこに、ファリサイ派の人々とのはっきりした違いが見られます。イエスは言い伝えにもとづいて手を洗っている者を許容し、ファリサイ派の人々は手を洗わない者の存在を少しも許そうとはしませんでした。
今日の箇所でイエスが指摘した偽善の第一は、ファリサイ派の人々が彼らの外側だけをきれいにし、内側は「強欲と悪意」で満たされたままにしているという現実でした。この言葉は、逆に資すると「内側を造ったお方は、外側をも造られたではないか」と考えることもできます。私たちの中で、外側があまりにも大きくなり、内側があまりにも小さくなる傾向があります。しかし、神の言葉を聞いているなかで、「内側をお造りになった方が、外側もお造りになった」ということを知り、外面を恐れなくなります。ここで必要なのは、「ありのまま」ということです。
先ほど創世記第9章8節から17節を読みました。この創世記第9章の箇所は、洪水の水が引いてノアとすべての生き物が箱舟から出てきた時の場面です。ここで神はノアと彼の息子たちに御自分の御心を告げておられます。キーワードは「契約」です(8~11章)。契約というのは、神が一方的に保障してくださる固い約束です。この場合は、神がこの世界を最後まで保持してくださるという約束です。ここで、「二度と」という言葉と「決して」という言葉で、約束の確実性が強調されていることに注目したいと思います。これは人類が悔い改めて罪を犯さない者になったからではありません。人類は洪水前となにも変わってはいない。第8章21節で、神は「人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ」と言っておられる。ルカ福音書は第11章39節で、「自分の内側は強欲と悪意で満ちている」と主イエスは言われた。人間が罪深いことを十分承知の上で、神は人類に再出発を許してくださいました。
主イエスは「清さ」とは何かが明らかにされたあと、「災いあれ」を三度用い、ファリサイ派批判が39節から41節に続いて、さらに重ねられます。その一つの批判は、野菜、しかも、もっとも取るに足らない野菜について十分の一の献げ物の掟は守っているのに(レビ27:30)、もっとも重要な「正義の実行と神への愛」をおろそかにしている「偽善」に対する批判です。最後から2番目の批判は、自己の権力や地位、名誉を好む彼らの行為に向けられます。最後にイエスは、ファリサイ派の人々を「人目につかない墓」にたとえられました。これは、ファリサイ派は記念碑(ないし墓碑)みたいなものだ、という悪口として伝わっていました。墓は不浄の象徴です。彼らは「人目には」清く見え、「その上を歩く人は気がつかない」。しかし、自らの清さを求める彼らほど汚れたものはないのです。
これとは逆に、イエスが人々の上に載せるものは、重荷ではなく、ご自分の手のみであり、そうすることによって病人をいやし、子どもを祝福します。ある人は「信仰とは単純化することだ」と言いました。主イエスは「幼な子のようにならなければ、神の国にはいることはできない」と言われました。
今日は宗教改革記念日です。改革者たちは「のみ」といいました。「キリストのみ」・「信仰のみ」・「聖書のみ」。真の信仰は、まず形式を打ち破り、単純化します。この「のみ」に真の信仰が宿ります。いのちがけでこれらのことを守る。多くはいらないのです。単純で、子どものようになるのです。改革者たちがこの信仰のみで戦い抜きました。またヒトラーが出た時、ナチズムに戦ったドイツ告白教会がそうでした。これも信仰と民族ではなく、ただ福音のみに、キリストのみになる戦いでした。
私たちは正義と神への愛にいつもこころを向けているだろうか。また、人からの誉れを求めていないだろうか。人に対して生きているのか、それとも神に対して、神に向かって生きているのでしょうか。そのことを問い続けたいと思います。祈ります。