カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 絶対に死ぬ神、絶対に生きる人

    2023年3月12日
    イザヤ書63:7~14、ルカよる福音書9:18~27
    篠﨑 千穂子(教職志願者)

     「絶対」という言葉を、皆さんはお好きでしょうか。私は世代のせいでしょうか、「絶対安心」といった言葉を信用していませんし、リスクを負うことが嫌いな人間です。本日のルカ9:18~27には、そんな「絶対」に相当する言葉が複数回登場します。22節でイエス様は自らが絶対に死ぬことと、27節では絶対に死なない人が出てくるということを宣言されます。普通、宗教の教祖という人は、「自分は絶対に死なない。あなたたちは死ぬ。だから、私を信じろ。」というもののように思います。イエス・キリストという神はこの点からして、大層変わった神だといえるでしょう。
     多くの奇跡を行ったイエス様を見て、当時の人々はイエス様をエリヤや洗礼者ヨハネ、昔の預言者の再来だと考えていましたが、十二弟子の筆頭であるペトロは、「神のメシアです。」とイエス様を指し示します。これに対して、イエス様は「誰にも話さないように」と口止めをします。なぜでしょうか。恐らくですが、当時「メシア」という概念は、独り歩きを始めていました。バビロン捕囚以降、神の声が聞こえなくなってからの長い間、人々は約束されたメシアと、メシアの到来を告げ知らせる預言者の存在を待ち望んでいました。イエス様がメシアだということに間違いはありませんでした。けれども、当時の人々はメシアの役割を、「圧政を強いるローマ帝国から助け出してくれる、軍事的政治的なスーパースター」あるいは「栄光に満ちたイスラエル王国を再び建て上げてくれる存在」と考えていました。けれども、それはイエス様がもたらした神の国とは違ったものでした。福音書記者ルカが描くイエス様がもたらした神の国は、悲しむ者にとことん憐れみが与えられるところです。昔のイスラエルに戻ることではなく、悲しむ人にとことん憐れみが与えられる神の国を目指す…そのために古いメシアの概念を脇に置く…そんな思いで、イエス様は「このことを誰にも話さないように」と命じたのかもしれません。

     それにしても、イエス様の告白はつくづく異常です。「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(22節)…長老、祭司長、律法学者たちによって構成されるサンヘドリンは、ユダヤの最高議会です。本来ならばメシアと結束してイスラエル王国を再建するべきサンヘドリンから殺されるメシアがいるだなんて、誰が考えられたでしょう。
    また、「私についてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」(23節)と言われる「十字架」とは、本来異教世界の死刑の道具でした。今でこそ十字架は私達クリスチャンの希望ですが、申命記に「木に掛けられた者は神に呪われた者」という記載もあるため、ユダヤ人には特に忌み嫌われた屈辱的な死刑の道具でした。「十字架を負え」とは「自分が考え得る最高の屈辱を背負いつつ、神に従え。」という大変厳しく重い意味をもつ言葉だったのです。「私は絶対に死ぬ。あなたは絶対に生きる。だから最高の屈辱を負え。」だなんて、イエス様はとことん変な神様です。

     けれども、神様が変なのは、この時に始まったことではありません。神様は人を創造された時に、自由を与えられました。最初から自由なんて与えなければ、アダムとエバは今もエデンにいたし、もちろんその後の出エジプトやバビロン捕囚と言った悲しい出来事もおきなかったでしょう。「勝手に自由を与えておいて、人が失敗したら裁くだなんて、神様は自分勝手だな。」と私は長いことそう思ってきました。けれども、最近少し、考え方が変わってきました。神様は多分、「私を愛するか?」と言ったとき、知性ゼロ、理性ゼロで「ハイ、愛シマス。」とロボットのように答えることを私たちに望まれなかった。心とたましいと知力を尽くして愛してほしいと願われた。そういう意味で、神様は確かに自分勝手なお方です。けれども、神様はその責任を自分で負うことにされた。自分から離れていく人類を諦めない、そのために子なるキリストを死なせ復活させることで、私達に命を与えられた神様がおられました。死ぬこととは、心臓の動きが止まって体が朽ちていくことだけをいうのではありません。神様との関係が断絶され、すべての喜びから断たれる状態をいいます。私たちにそんな思いをさせないため、私達に喜びを与えるため、自らの子を死なせることを選ばれた父なる神様、そしてそのリスクを引き受けられたイエス様を覚えたいと思うのです。

     22節で「人の子は必ず多くの苦しみを受け…3日目に復活することになっている。」とあります。これは聖書の元の言葉では、「必ず死ぬことになっている。」「死ぬのが当然である。」という強い必然を表す言葉であるとともに、「死ななければならない。」という他者からの異議申し立てを一切認めない強い意志を表す言葉でもあります。また、3日目に復活するというのも、必ずしも72時間とは限らない言葉です。完全数である3という数字は永遠に匹敵する言葉です。イエス様にとっての「死」…神様から断絶され、すべての喜びから閉ざされた状態は永遠に続くものに感じられたことでしょう。その上で、私達が絶対に生きるために、絶対に死ぬリスクを引き受けて下さったイエス様がおられます。
     「あなたにとって死ぬことも復活することも大した問題ではないでしょう。あなたは自分勝手な神ですから。」という自由も、私達には許されています。

     「神様との喜びの関係に生きるチャンスを与えてくれたイエス様を信頼します。自分の思う最善よりも、神様の適切さを信頼することを選びます。」そう答える自由も私達には許されています。
    受難節の今日、私達はどんな言葉を選び取るでしょうか。