神のなせるわざ
2023年5月28日
創世記11:1~9、使徒言行録2.1~11
関 伸子牧師
使徒言行録第2章には五旬節の日(ペンテコステ)の出来事が記されています。五旬節はレビ記第23章15~21節に基づくイスラエルの収穫祭であって、ギリシア語でペンテコステ(第50の意味)といいます。過越祭の第2日から7週後、すなわち50日目に守られた故です。主イエスが十字架につき、死んで、復活させられてから五十日目、神の計画があって、弟子たちは聖霊を受けました。五旬節の日が来たら全員が聖霊を受けたのではありません。イエスの言葉を信じて、約束の霊を、心を一つに合わせて、ひたすら待っていた人たちの上に注がれたのです。
激しい風のような音がこの家いっぱいに響き渡りました。神の霊が彼らを襲ったのです。それは新しい時のあけぼのでした。風が音を伴って耳を支配したとすれば、炎は舌を伴って、口を支配します。この五旬節の日、それまで聞く者であったものは、更に語る者とされました。「舌」は言葉の賜物(カリスマ)の象徴です。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」ということが一同の上に起こったことに意味があります。私たちのために独り子を十字架につけてくださった神に期待していく、このお方によって、私の心は満たされているという状態は、人から理屈で説明されてもなれるものではありません。霊が注がれるとき、はじめて、それはわかることなのです。
さらに、天からの力が「他の国々の言葉」で話す人に変えます。聖霊が降ると、弟子たちは「他国の言葉で話しだした」(4節)と言います。これは「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)とあるように、ほかの国々の人々にも、福音を宣べ伝えるための使命を表しています。人はひとりひとり異なり、さまざまです。そのような人々に伝道するためには、それぞれの存在や個性を尊重する心が必要です。しかし、すべての人は神が愛しておられる貴い存在です。私たちも、どんな人をも愛する心が必要です。しかし、そんなことが私たちにできるでしょうか。私たちにできなくても、神にはできます。「まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)とあるように、神に求めていきたい。私たちが本当の教会を建てていくことができるようになるために。
最後にひとつ確認しておきたいことがあります。聖霊による宣教はエルサレムから始められなければなりませんでした。「エルサレムから離れないで・・・・・・」(1:4)や第1章8節「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」はそれを裏付けます。それなのになぜ、宣教の第一声を「ガリラヤ人」の言葉を用いて聖霊は語らせたのでしょうか。もちろん彼らはイエスのガリラヤ伝道時代からイエスに従った者たちであり、先週ご一緒に読んだ箇所の「家の上の階」で祈り続けた者たちであり、彼らにこそ聖霊の賜物の約束が与えられていたからであったことがあります。しかしそれと共に「あらゆる国々から」のユダヤ人と、この「ガリラヤ人」との対比の中に、私たちは「宣教の言葉」の質を見出さないでしょうか。
まず「ガリラヤ人」は、「異邦人のガリラヤ」と言われ、「ガリラヤからは預言者が出るものではない」(ヨハネ7:52)と言われるような地方の出身者であったことを忘れてはなりません。聖霊はこのような「ガリラヤ人」の言葉を器としてあえて選んだのです。彼らが持っていたのは、漁師や大工の、貧しいけれども、自分の言葉でした。そして、この卑しき者をも、このようにかえりみてくださった「神の大きな働き」を「神の勝利」を、自分の言葉で語っただけです。素朴な恵みの事実を、口ごもり、口ごもり、「御霊が語らせるままに」語ったにすぎなかったのです。
しかしそれで十分なのです。だれもが、自分の生まれ故郷の言葉のように聞こえたのです。皆が、あっけにとられ、驚き怪しんだ。ほかの人たちはあざ笑った。しかしそれで十分なのでした。驚きと躓きなくして、十字架における神の勝利を信じることはあり得ないのですから。
したがって、福音を宣べ伝えるということは、均一さを強要することではなく、御言葉に誠実であり、多様な理解を受け入れるということです。それが教会であり、交わりです。この交わりにおいて、ひとりひとりがそれぞれの役目を担っています。皆が重要なのです。それゆえに、皆のそれぞれの賜物が尊重されなければなりません。
聖霊はあなたに与えられている。そのためにたった一つのことが必要です。真の慰め主である、力の主をすべての先にすること。第一に神を仰ぐことです。心を静め、ただ神が働き、神が命じる時、弟子たちは立ち上がりました。ただ静かに待つ人に、この霊は与えられ、福音を語る勇気と本当の意味での教会の集まりをつくる。ペンテコステの祭りは私たちひとりひとりをここに招いています。祈ります。