夜通し働く神
2023年7月30日
出エジプト記14:15~22、コリントの信徒への手紙一10:13
関 伸子牧師
今日は3年振りに国立のぞみ教会の礼拝堂に集い共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝します。2020年に新型コロナウイルスの感染が拡大して私たちは目に見えないウイルスを恐れて生活しています。神様に信頼することを忘れて、恐ろしいという思いに心が捕らえられてきたのではないでしょうか。
先ほど出エジプト記第14章の有名な聖書箇所を読んでいただきました。出エジプトというのは、イスラエルの民が紀元前13世紀頃、エジプトで奴隷生活を送っていたところに、モーセという傑出した指導者が現れて、現在のパレスチナをめざして解放の旅に出たという出来事のことです。
出エジプト記によると、アブラハムから数えて三代目、ヤコブの時代にカナンはひどい飢饉に見舞われました。そこで一族は、ヤコブの子ヨセフがエジプトで高官になったのをきっかけにエジプトに住みつき、やがてその子孫たちは数を増して、ついには侮りがたい力を持つようになりました(1:7)。しかし、そんなわが世もつかの間のこと、やがてヨセフを知らないエジプト王が興り、イスラエル人を抑圧するようになりました。これは歴史的には新王国の第18王朝(紀元前1570~1310年)あたりのことで、イスラエル人も奴隷化されていきました。そして、次の第19王朝時代(紀元前1310~1200年)、いっそう圧迫が強まる中で王位についたのが、かの有名なラメセス二世でした。ラメセス二世はとても野心的な王で、ナイル河のデルタ地帯に倉庫の町ピトムとラメセス(アヴァリス)を企画、そのためにイスラエルの民を強制労働にかり出しました。
そこに登場したのがモーセだったのです。神はモーセに、エジプトで苦しむイスラエルの民を導き出し、カナンへ連れ帰るよう命じたのです。モーセは最初、自分はその任ではありませんと渋るのですが、神の力にはかないません。結局、同朋が苦しむエジプトに戻ることを誓います。このようにして黒人霊歌“Go down, Moses”(「下り往け、モーゼよ」、讃美歌21-186「エジプトのイスラエルに」)に歌われた英雄が、隷属の民を率いてエジプトを脱出する、手に汗握る大活劇の幕が上がったのです。
私は、今月初めに、『エクソダス―神と王』という、出エジプト記をテーマとした本格的な映画を見て心が躍りました。やはり、圧巻だったのは、紅海が割れる場面でした。そして、「紅海」は、その映画では聖書の通りに「葦の海」となっていました。エジプト自慢の騎馬戦車が次々に波間に沈むのを見て、モーセ役は「神の力を見たか!」と得意満面ですが、ラメセス王役はがっくり頭を垂れました。
神は、この時に、この時にこそ、夜通し働いてくださった。万策尽きたモーセと民に生きて働きかけてくださった。そのことが印象的に描かれていました。人間にとっての危機を、好機に変えて、一番大切な今日、生きて働く神。その神は夜通し働く神なのです。
出エジプト記第14章19節以下を読み進めると、事態は急転します。モーセは、この驚くべき奇跡を信じる信仰に堅く立っていました。そして、神もモーセの信仰を助けられました。「モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、渇いた地にした。水が分かれたので、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった」(14:21-22)。世界の誰もが以前にこのような奇跡を体験したことはありませんでした。これからも起こることはないでしょう。もちろん今でも、海の水が一時的に引いてしまう不思議な現象は、世界のどこかで起こっているかもしれない。しかし、その引いた水が右と左に壁となってそびえ立つなどということは起こり得ないでしょう。
最大の危機から最大の救いへと変わるのです。今日の箇所ではありませんが、出エジプト記第12章40~42節、特に42節後半、「その夜、主は、彼らをエジプトの地から導き出すために、夜通し見張りをされた。そこでこの夜、すべてのイスラエルの人々は世々にわたり、主のために夜通し見張りをするのである」。何があったのか。それは、つまり夜通し働く神、神の徹夜(オール)があったのです。
26~29節が14章全体のクライマックスです。日没時にモーセがちょうど手を伸ばし海水を二つに分けたように、今や日の出の時、モーセはその所作を繰り返します。そして「夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った」(27節)のです。「主は彼らを海の中に投げ込まれた」というおそろしい句によって第7章14~24節においてモーセがファラオの面前に登場して始まった闘争が今や終幕に至ったことが明らかになります。神が勝利しました。それはファラオに対してだけでなくエジプトの神々に対しての勝利でもあります。
このことは、神の真実を信じた時にのみ、与えられることです。苦しい事情や悲しいことは、すぐには解決されないことが多い。しかし、信仰によって、神の真実を信じることができる時に、逃れる道が確かに与えられることを信じることができるのです。あるいは、神が真実である、ということこそ、まことの逃れ道とも言えるでしょう。これは信仰の問題です。目には見えなくても、夜通し働く神に委ねつつ、祈りつつ、信仰の道を進んでいきましょう。お祈りをいたします。