信仰の証人
2023年8月20日
アモス書5:18~24、ヤコブへの手紙1:19~29
関 伸子牧師
ヤコブの手紙は第1章冒頭のあいさつに続いて試練と忍耐について述べ、19節からは、ヤコブの手紙の主要なテーマの一つである「行い」について論じていきます。この手紙が前提にする読者は、知恵の存在を疑い、神の恵みに疑問を感じ始めている人々であります。彼らは試練の中で信仰を失いかけ、現状を運命としてあきらめ、むしろ心地よさや快楽を追い求め始めています。このような人々に向け、この手紙の著者は、神の本性を弁護しようとしています。
先ほどお読みした箇所の少し前、17節はこのような言葉が記されています。「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の源である御父から下って来るのです」。直訳すると、「良い贈り物はみな、そして完全な賜物はみな 上から降って来たものである 光たちの父から」となります。神の賜物は、贈る動機において不純なものはなく、賜物そのものも完全だというのです。
光は天地創造における最初の被造物であり、原初の混沌に対して神が行った勝利宣言でもあるので、光は、神からの贈り物を代表する被造物になります。ここでの「光」(複数)は、最初の被造物である光であると同時に、太陽や月のような天体を表しており、神はこれらの造り主でもあり、管理維持者でもあるので、「父」と表現されます。私たちに困難や誘惑が迫ってきても、決して神の愛と真実を疑ってはならないのです。
そのような神が、私たちを「真理の言葉によって」生んでくださり、私たちを「造られたものの初穂」にしようとしています。ですから、「植え付けられた御言葉を受け入れ」(21節)、それを聞き流すことなく、実行する者となるのです。ここで、主イエスの種蒔きのたとえ(マタイ13:1~9)を思い起こします。種は神の言葉であり、土地は人間の心です。このたとえの中でイエスは、四種類の人間の心を描写しています。御言葉を聞いても悟らず、受け入れない道端の心、み言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れますけれども、深みがなく、すぐつまずく岩地の心、御言葉を聞くけれど、この世の心づかいと富の惑わしにふさがれて結実しないいばらの心、そして御言葉を聞いて悟り、結実させるよい地の心です。よい地に蒔かれた種は、やがて30倍、60倍、100倍の実を結ぶようになります。
御言葉は種にたとえられていましたが、次に鏡として、神の言葉を行う者となるために大切なことが教えられています。まず、自分の生まれつきの顔を鏡で見るように、自分の心の鏡を、神の御言葉によって最も正確に呈示していただくことです。鏡が主の栄光を反映させるように私たちを変えてくれるのです。
キリストは、神に対する人間の関係として、私たちが神を愛し、信頼し、服従すべきことを教えられました。人間の自分に対する関係としては、謙遜と仕える心を常に持ちなさいと教え、人間と人間との関係として、自分が他人からしてもらいたいことを他人にもしなさいと教えられました。つまり、互いに愛し、赦し、すべての人に愛を施すということを自分も実行して愛に行きなさいということです。
ところで、第1章19~27節のキーワードの一つは「聞く」と「聞く者」という語です。ヤコブ書の著者は、すでに指摘したように、二元論的に神の国と欲望の世界を思い描いていますが、この二つの世界をまたぐのが、まさに「聞く」という行為なのです。19節で「聞くに速く」と勧めた著者は、22節以降では、聞くだけではダメだと警告します。すなわち、聞き方の質によっては、神の国に留まることもできるし、欲望の世界に引きずられることもあり得るのです。
何よりも神の言葉を聞くことが大切です。神の声を聞いたという例は、中世のいわゆる神秘家たち(ジャンヌ・ダルクをはじめとして女性に多い)のあいだでは決して珍しいことではないようでした。この人たちにとって神の声とは、真実に生きるための根拠にほかならなかったのです。
1946年9月10日、カルカッタにあるロレット修道院の学校教師であった36歳のシスター・テレサは、そこから500キロほど離れたダージリンに向かう汽車の中にいました。数日間そこで黙想するためでした。マザー・テレサはこの車中で「すべてをささげて、貧しい人々の中のもっとも貧しい人に仕えなさい」という神の声を聞いたのです。マザー・テレサがその声を受け入れ、その声に服従したのは周知のとおりです。
私たちは「聞く」ということをもっと真摯に考え、聖書の言葉を通して神の言葉を求め、神の声を聞く、自分を誰よりも知っていてくださっている身近な方を通してもあるかと思いますが、この「聞く」ことを通して私たちは神に出会い、神の言葉に押し出されてこの世界で喜びをもって信仰の証人として生きていきたいと思います。お祈りをいたします。