カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 人生において肝心なこと

    2023年9月10日
    詩編142:1~8、ガラテヤの信徒への手紙6:11~18
    関 伸子牧師

     ガラテヤの信徒への手紙は割礼と律法を強いるユダヤ主義者に対する戦いを含む、一種の論争文書です。しかし、直接の宛先は、かつてパウロが伝道して信仰に導いたキリスト者たちであり、パウロの烈しい語調の中にも彼らへの深い愛が示されています。

     筆記者によるパウロの口述筆記は第6章10節で終わり、手紙はこれからパウロの直筆の部分に入ります。「御覧のとおり、私はこんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」(11節)。大きな字はパウロの目が悪かったからだとする説もありますが、むしろパウロがこの手紙の重大さを訴えようとしたためであり、ガラテヤ人に対するパウロの愛の強さの現れととるべきでしょう。私たちであれば、アンダーラインを弾いて強調するような気持ちであったと考えることができます。ガラテヤ人たちはこの大きな字で書かれたメッセージを読んで、異端に走ろうとしている自分たちの愚かさがどんなに大きいかを知らなければなりません。

     「肉において見栄を張りたい人たちがあなたがたに割礼を強いています。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです」(12節)とパウロは言います。この手紙の中で、割礼を受けることを勧める者たちもキリスト者です。私たちは、そういう考えを奇異に感じますが、当時においてはそうではなかったのでしょう。割礼を受けないということは、一般のユダヤ人たちからの迫害を招く恐れがありました。割礼を勧める指導者たちは、そのような厳しい道ではなく、多くのユダヤ人の理解を得ることができる道を勧めたのです。これは私たちが伝道しようとするときにもよくあることではないでしょうか。福音を何重にもオブラートに包み、十字架が見えなくなるようにしながら、世間に受け入れてもらえる伝道方法を選択しがちです。しかしそれは正しいことでしょうか。

     反対者の考えに対して、パウロは自分の確信を鮮明にします。パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです」(14節)。割礼はユダヤ人になったことを誇るしるしです。それは迫害を避けるために、ユダヤ人になったという隠れ蓑を着たということであり、人間の力を誇っているのです。しかし、そのために十字架の力を頼りにすることをやめたことになってしまいます。十字架を誇るということは、自分の罪を認めるということです。自分のような罪人が、キリストの十字架の贖いによって救われたということです。それは人間を誇ることを捨て去る道です。しかし、それによって神の子であるキリストの力が、私たちを包み込むのです。それは、ユダヤ人が忌み嫌うキリストの十字架を、あえて唯一の誇りとするものです。

     大切なのは「新しい創造」であるとパウロは言います。もはや、ユダヤ人もなく異邦人もない。人間的なことやこの世的なことは重要ではない。キリストによって新しく創造されたかどうか、これこそが最も重要な事柄なのです。

     パウロの最後の訴えは、他の手紙のような支援の依頼はなく、ただ自分の務めを妨げないように、との訴えです。「イエスの焼き印」はパウロが受けた迫害の傷跡でしょう。パウロの傷だらけの体は、パウロの愛のあかしでした。「私は神を愛している。神が私を愛してくださったからである。私はキリストを愛している。キリストが私を愛してくださったからである。私は教会を愛している。キリストが教会を愛しておられるからである。私はあなたがたを愛している。神があなたがたを愛しておられるからである」と、パウロの傷は叫んでいます。力強く、今も。

     主の福音によって救われた者は、すべてこの焼き印を身に受けています。つまり「なぜなら、あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです」(フィリピ1:29)。それは個人的な苦難の経験というよりも、主の教会を担う責任を負うことです。

     いよいよパウロはこの手紙を書き終えます。「きょうだいたち」。パウロの最期の呼びかけです。パウロはここで、自分で、筆を取って、自分の思いのすべてを書き込もうとして、一所懸命に下手な字を書いたかもしれません。ガラテヤ人は主イエス・キリストにあってパウロのきょうだいとなりました。彼らは今もきょうだいです。そして、永遠にきょうだいであり続けるでしょう。この世にいる間も、そして御国に入ってからも。キリストにあって。ガラテヤのキリスト者のためのパウロの祈りはこれで終わったわけではありません。パウロは彼らのために祈ってきたし、今も祈っています。だから信徒たちは、この世にあって、時に恥を忍び、かっこの悪いことにも耐えるのです。つらい思いをしても耐えることができるのです。何が自分たちの真実の望みであり、誇りであり、喜びであるか、繰り返し、新たにして生きる者でありたいと思います。お祈りをいたします。