どうしたら信じられるか
2023年12月10日
列王記上22:6~17、ヨハネによる福音書15:41~7
関 伸子牧師
主イエスは「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」(5:39~40)と、今日の聖書箇所の直前のところでいわれます。旧約聖書は命について語っているのに、人々はそれを与えるために人間となられた御子イエスを認めようとしない。真実の言葉であるイエスが来られる。そのイエスを迎え入れる私たちは、そこでこそ「命を得る」のです。そのことをどうしたら信じられるでしょうか。
主イエスは、ご自分が神より遣わされた存在であることを証明するものとして、神ご自身、そして、ヨハネの証しにまさる証し、すなわち、イエスご自身の働きと聖書をあげました。しかし、よく考えてみたら、これら三つのことは、ユダヤ人たちも大切にしてきたものです。彼らは神を信じていました。またバプテスマのヨハネの働きも認めていました。また、聖書には「永遠の命」に至る道があると信じて疑わなかったし、熱心に研究もしていました。しかし、イエスが神によって遣わされた存在であることをユダヤ人たちは認めようとしません。なぜでしょう。
その理由は、「私は、人からの栄光は受けない」(41節)というイエスの言葉を、ユダヤ人がとうてい理解できなかったからです。主イエスのお受けになる栄光は人間からのものではなく、父なる神から与えられる神の独り子としての栄光であり(ヨハネ1:18)、この世での様々な業を聖霊なる神の力に基づいて行い、それを通して栄光を示すのです。したがって、イエスはご自分の栄光をこの世で現わして、人々からの称賛を求めることなく、むしろ、神の栄光をこの世で現わして、父なる神から賞賛されることを求めるのです。
主イエスはユダヤ人たちの本質的な問題は、彼らが「神への愛」を持っていないことにあると指摘しています。口語訳は、「神を愛する愛がない」と訳しています。この場合の原文は、そのまま訳せば、「神の愛」です。聖書協会共同訳も口語訳も、人間の側から神を愛する愛であると理解しています。確かに、ユダヤ人は、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、「神を愛する」ことを日常生活のもっとも大切なこととしています(申命記6:5)。そして、その戒めが記されたものを自分の手首につけ、子どもたちに語り伝えました。その意味では、彼らは、神をもっとも愛する民であると言えます。すると、ここでイエスが語っているユダヤ人が「神の愛」を知らないというのは、「神を愛する愛」ではなく、文字通り、「神の愛」、つまり、「神からの愛」ということではないでしょうか。ユダヤ人は「神を愛する愛」を知っていても、「神からの愛」を知らないことに決定的な問題があるということです。言い換えるなら、主イエスは、「神からの愛」を知っています。この場合の「知っている」というのは、単に認識の上でのことではなくて経験上のことと言えるでしょう。イエスは、「神からの愛」を経験することによって、その愛を実現するために働いておられる。ユダヤ人たちがイエスの働きを受け入れることができないのは、彼らが「神からの愛」を知らないからです。
主イエスは「神の愛」を実現するためにこの世に来られた方です。それは、神によって造られた者の命がそこなわれるという現実を回復するためでした。それがいやしの行為だったのです。この「神の愛」を実現することが主イエスのお働きのすべてでした。第5章初めにイエスが38年も病気で苦しんでいる人を癒されたのが安息日だったことで、ユダヤ人たちは「今日は安息日だ。床を担ぐことは赦されていない。」と病気を癒された人に言いました。安息日といえども「神の愛」を実現することは例外ではありません。しかし、神の愛する命を安息日に回復するということは、ユダヤ人たちの烈しい非難をもたらし、イエスご自身の命をも脅かすこととなったのです。しかし、イエスは人からの栄光をお求めにはなっていません。むしろ、神からの栄誉、「栄光」を受けることがイエスの働きでした。
私たちは、主イエスについて直接証しをする新約聖書を持っています。「主われを愛す」という有名な賛美歌(『讃美歌21』484番)があります。そのもとの歌詞は次のような意味です。この賛美歌は、聖書が私たちに何を証しし、何を告げているかを、端的に言い表しています。「イエス様は私を愛しています 私はそれを知っています 聖書が私にそう告げているから 小さい者たちも彼につながっています 彼らは弱い でもイエス様は強い そう、イエス様は私を愛しておられる 聖書が私にそう告げています」。
「イエスはメシアである」と私たちは告白することができる。なぜなら、主イエスは、神が造られたひとりひとりの命を愛されたからです。しかも、ご自分の命を犠牲にするまでに。この主イエスの歩みに従って、私たちも主イエスの言葉を幼な子のように素直に受け入れて幼な子の心に変わる。この〈神のまなざし〉をいつも心に覚えていたいと思います。私たちも神の栄光をほめたたえることを大切にしたいと思います。祈ります。