カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神のみわざが見えてくる

    2023年12月24日
    ゼカリヤ42:14~17、ルカ1:57~66
    関 伸子牧師

     待降節第4主日に私たちが一緒に読む聖書箇所はルカによる福音書第1章57節から66節の洗礼者ヨハネの誕生の物語です。最初にこうあります。「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」(57節)。「満ちて」というのは正確に訳すと「満たされて」となります。この表現は、内容上の主語が神である神的受動態であり、神が月日という「時(クロノス)」を満たして、エリサベトのお産を実現することを示しています。

     エリサベトが男の子を産むと、人々は主がエリサベトを大いに慈しんだと聞いて、「喜び合い」ました(58節)。この喜びは人間の自然な同情心からさほど離れていません。子どもに恵まれることのなかった不幸が取り除かれたのですから、それを喜ぶのは人間にとって自然なことです。そして、神の豊かな憐れみは、単にエリサベトのみに対するものではなく、彼女を通して彼女の近所や親戚の人々にまで喜びが伝わっていったように、彼女の属する共同体全体に対するものでもあります。

     8日目に、人々は男の子に割礼を施し、習慣に従い、父の名を取って命名しようとします。人々が父親の名前を取って、生まれた子どもをザカリアと呼ぼうとしましたが、エリサベトは「ヨハネとしなければなりません」と言い、それをさえぎります。直訳すると「ヨハネと呼ばれることになりましょう」。「ヨハネ」は「神の恵み」または「神は恵み深い」という意味です。この「ヨハネ」という名前をエリサベトは、夫ザカリアとの筆談か何かで知ったのでしょう。さらに、ザカリアも「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々が「皆不思議に思った」のも当然です。
    人々の驚きは常識はずれの命名だけではなく、父と母の意思が一致したことにもあったはずです。そうであれば、この男の子の誕生は並みの出来事ではない、という気付きが彼らの驚きに含まれていたはずです。こうして彼らの喜びは、いっそう奥の深いものになってゆきます。

     「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた」(64節)。天使から喜ばしい知らせを聞いたのに、信じなかったザカリアはその罰として口がきけなくなってしまった。沈黙を強いられていたザカリアはその子どもの誕生を経験し、天使が命じたとおりその子をヨハネと名付けることによって再び口がきけるようになりました。「舌がほどけ」という何気ないこの言葉は、とても美しい言葉だと思います。口が開き、舌がゆるんだ時、その人の言葉が語り始められた時、その最初の言葉は神に対する讃美であった。沈黙の間、いつも新しく父親になったザカリアの胸を、全身を浸していたのはこの喜びであり、この神をほめたたえる思いであったに違いありません。そして、あふれ出てくるその喜びが恐れを呼び出す。そして、その様子を見た人々は、ヨハネ誕生という出来事の中に「主の力」(66節、直訳は「主の手」)を感じ、恐れを感じたのでしょう。

     ザカリアの喜びと賛美の歌が人びとに恐れを抱かせた。すぐには共に歌うことができない、異質なもの、違ったものがそこに現れてきた。考えてみると、近所の人びとや親戚も、男の子が生まれたのを、ただ男の子が生まれたと喜んだのではなくて、神のあわれみだと言って喜んだ。ここに神の祝福が現われたのだと、信仰を持って喜んでいます。ザカリアの口は神をほめたたえることによって用いられました。

     ところが、その信仰を持って喜んでいる喜びと、このザカリアやエリサベトの喜びとが違っていた。どこから違ったのか。この近所の人々や親族たちは、喜び、祝うことにおいても、なお神のみ前における喜びを獲得していませんでした。この喜びにおいても、もしかしたら、罪を犯していたと言ってもよいかもしれないのです。

     主のしもべ、と呼ばれている人にこの罪の現実が現われてくる。この主のしもべ、献身者とは、ユダヤの民、イスラエルの民です。ここでエリサベトを囲んでいる人びとでもあるのです。そういう人びとが、男の子の誕生を神の祝福として見ながら、なお、そこで神の恵みを見ることができない。これは、私たちも他人事とすることはできません。

     少し先の72節に「主は我らの先祖に慈しみを示し」とあります。神の慈しみ深いみこころ、それは心痛む憐れみ、と訳してもよい言葉です。ザカリアは神の言葉を聞いた、神のわざを見た、と先ほど言いました。その神のわざと、神の言葉は、71節で言えば、私たちを敵から、また、すべて私たちを憎む者の手から救い出す神のわざであり、そういう敵と対決する神の言葉です。神の救いは、敵から守って、私たちをひたすら神のみまえにあって礼拝する群れとして形づくろうとするものです。

     私たちは自分で自分を救うことはできません。神様は救いの御業を、洗礼者ヨハネを送ることから始められました。ヨハネは、救いはどこにあるかを私たちに知らせる預言者であり、そのために「主に先立って行き、その道を備え」(76節)るのです。

     今、私たちがしているのは礼拝です。私たちも、すぐに脅えてしまいます。しかし、今ここでは、その脅えを捨てることができます。そして、この礼拝を共にすることができる喜びのなかで、望みをもって生きていくことができます。教会の歴史を書く人びとは、この年には、こういう伝道集会をしたとか、この年には、こういう出来事があったとか、いろいろ書きますけれども、私は、教会の歴史のなかで最も大事なのは、毎日曜日、主の日のごとに繰り返されている礼拝であると思っています。アドベントから新しい年が始まりました。この年の礼拝の歴史が、なお望みをもって続けられることを共に願いたいと思います。お祈りをいたします。