神の霊に守られる
2024年5月19日
エゼキエル書437:1~14、ヨハネによる福音書14:15~23
関 伸子牧師
主イエスが十字架に掛けられ、死んで、葬られて3日目に復活されたイースター(復活祭)から50日目に、キリストの弟子たちの上に天から聖霊がくだり、教会が誕生した日をペンテコステ(聖霊降臨日)と言います。
主イエスの復活から50日後、五旬祭の日に不思議な出来事が起きます。人々が集まっているところに、激しい風と共にやってくる。ギリシア語では風は霊と同じ語源です。また、ヘブル語では霊は息と同じで、神の霊は神の息吹として表現されます。私たちは風を見ることはできなくても存在を感じることができます。息も見えませんが確かに存在します。聖霊=神の息吹も目には見えないけれど確かに弟子たちに降ったのです。
聖霊は命の息。預言者エゼキエルは、神が、イスラエルの人々の枯れた骨に命の息を吹きかけ、新たな命を与えて生き返らせる幻を鮮やかに示します。また、聖霊は炎。人々の間に宿り、信仰の炎を燃え立たせ、福音のメッセージを活き活きと語らせるエネルギーとなります。その言葉があらゆる国の言葉で聞かれたように、聖霊はそれぞれの違いと個性を祝福しながら、一つの共同体を形作ります。
ヨハネによる福音書は聖霊を「パラクレートス」と呼びます。今日の言葉で言えば弁護士に当たるもので、法廷で被告のために被告に代わって弁じ、また、被告自身何を陳述すべきか、いかに陳述すべきかを教えてくれることを職務とする者です。これはヨハネ特有の言葉です。
主イエスが誰であるかをなかなか理解することのできなかった弟子たちです。イエスが地上から取り去られた後の弟子たちの歩みには、実に多くの困難が待ち受けています。そこでイエスはもうひとりの弁護者の派遣を約束して、弟子たちを慰め、励まします。それは、永遠に私たちと一緒にいるようにしてくださるためです。
イエスを愛し、その掟を守るときに「もうひとりの弁護者」が遣わされます。今日の箇所では15節と21節が囲い込みを作っています。興味深いのは「世」と「あなたがた」の対立です。世は見ることができないが、あなたがたは見る。この差異を生じさせるものは主イエスへの愛です。愛は目を開かせ、憎悪は目を閉じさせます。イエスを愛さない「この世」は別の弁護者とイエスを見ることができませんが、イエスを愛する「あなたがた」はイエスを見る。よく見ると、15節と21節では「私を愛する」と「掟を守る」が逆の順序になっています。15節は「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである」ですが、21節は「私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である」とあります。このような配置は愛の掟の相互依存を示します。愛があって掟があり、掟があって愛がある。掟を守らせる原動力は愛である。と同時に、守るべき掟の内容は愛なのです。このように理解された掟は単なる道徳的教訓でも、人を外から圧迫する倫理的義務でもありません。むしろ、神の救いを目にしたものの心に自発的に湧き出る掟であり、神への愛がそれを引き起こします。
人を愛するとはどういうことでしょうか。それは決して感情的なものではありません。人を愛するということは人を許すということを第一に意味しているでしょう。これについて改革者カルヴァンは主の祈りの「われらが罪を赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と解説して次のように言っています。神が私の罪を赦してくださるということは、もちろんイエス・キリストのあがないを信じることによって信じることが出来る。しかし私たちが他の人の罪を赦すとは何か。私たちは神でもないのに人の罪を赦す権利があるのか、また赦すことが出来るのか。それは出来ない。ただ私たちは人の罪、人からされたことを忘れることが出来るだけである。それがここにある人の罪を赦すということだ、と。
これは私たちの胸に迫るものがあります。忘れること、本当に忘れることが大切なのですね。私たちは人にされた不快なことはなかなか忘れず復讐することに力を注いだり、戦争中には残虐なことをしたことを忘れさせようとする政府や国民の姿勢にあらわれています。忘れるべきことは忘れず、忘れてはならないことを忘れる。これを逆にしなさいと主イエスはおっしゃるのです。イエス・キリストの罪の赦しによって私たちは生かされているからです。
イエスを愛することとイエスの言葉を守ることは一つのことであり、これを実践する人はイエスと父なる神に愛される。そして父なる神と神の子イエスは自分たちを愛する人の所に来てそこに住まいを設ける。こうして、神を愛する人は神と共に生きるのです。
弟子たちがこのようなパラクレートスである真理の霊を受けるのは、イエスが彼らのために、神に願った結果です。すなわちそれは主イエスの愛から出たのです。神の霊は私たちの呼吸のようなものです。神の霊は、私たちが自分に近いよりももっと近くにおられます。常に祈りましょう、「聖霊よ、来てください」と。