永遠の命のかて
2024年7月21日
列王記上17:8~16、ローマの信徒への手紙14:13~23
関 伸子牧師
ローマの信徒への手紙第14章で、パウロはこれまで具体的に、食べてもよい食べ物のことや重んじる日のことで裁いてはならないと述べ、13節ではより一般的に何事においても「もう互いに裁き合うのはやめましょう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、きょうだいの前に置かないように決心しなさい」と語り始めます。具体的には肉食を可とする者たちと、ユダヤ人の律法を厳格に守ることを主張し、肉食をする人々を非難する人々の隔絶があったのです。「裁き合う」という表現は「人種化」する思考への警告です。属性で人々を一括りにし、より劣ったものとみなすことをパウロはもうやめようと訴えています。
裁き合うな、という勧告が一段落すると、こんどはさらに強い人たちに対する勧告がなされます。「つまずきとなるもの」と「妨げ」はほとんど同じ意味であり、兄弟を罪へ誘うもののことです。なぜこのようなことが言われているのでしょうか。強い人は、14節が認めているように、「それ自体で汚れたものは何一つありません」ということを確信しています。しかしその人は、その確信を教会の中で主張し、これに基づく行動をすることが兄弟へのつまずきになるという危険をよく考えなければならないのです。モーセ律法に規定されている清さと汚れの区別をめぐって、初代教会は大きく揺れていました。ローマの教会における菜食主義や日に関する議論も、この論争の延長戦上にありました。
ではパウロはそのことに関してどういう処方を述べているのでしょうか。まず食物のことでは、ただ「汚れていると思う人にとってだけ、それは汚れたものになるのです」(14節)と言って例外を認めています。「汚れている」という語は、元々は「共通の、普通の」という意味であり、イスラエルの民にとって神聖なものとは異なり、異邦人にも一般に共有されているものを指すので、イスラエルの民にとっては汚れたものとなるのです。しかし、それ自体で汚れているものが何もないのは、この世のすべてのものは元々神が創造したものだからであり、それらすべてを神が良しとしているからです。
パウロは「滅ぼすな」と述べ、「神の働き」へ立ち帰るようにと言います。第三の視点です。どちらが聖いか否か、真っ当なのかを裁決をしていません。
この後議論を一歩進め、強い人たちに対して、兄弟の救いという観点から、自由を制限しなければならないことを教えます。食物と飲み物のこととはいえ、弱い者にとっては、救いに関係のあることですから、非常に重要なことです。また、考えてみれば、食物のことですから、これは全く日常のことです。しかし、その話が、最後には、キリストの死の問題にまで及びました。あらゆることにおいて、主イエス・キリストに対する責任を問われることです。だれの場合にも、キリストの死との関係を見ることがわかってきます。
「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(17節)。「神の国」はパウロの手紙には珍しい言葉です。しかし、ここにも地上を歩まれた主イエスの神の国の福音宣言を継承する姿勢は明らかです。そして、その「神の国」、つまり「神の支配」が教会においてまず現実となっていることをわきまえている。主イエスの教えと行動、キリストの贖いの救いのわざが、ここで福音の現実、出来事となっています。
その歩みの特質が、「義と平和と喜び」です。教会、そしてキリスト者の歩みの特質は、何よりも喜びですけれども、そこにこそ、聖霊に生きる者の現実が現れる、と理解します。神との関わりがただしく整えられる。そして神との和解に生きる者は、隣人との和解に生きる。そこで生まれるのが平和です。その歩みは簡単ではありません。それに耐え、平和を生きる者として生きる。そして、それを支えるものがある。ここまでに語られていなかったもの、すなわち聖霊の賜物、喜びです。第5章1節以下を思い起こします。聖霊が明示される、神の敵であった「私たち」のために死んでくださったキリストの死に命じされた神の愛を語り、私たちは、その「神を喜ぶ」と語ったパウロの言葉です。聖霊における喜びとはまさに、主イエス・キリストの愛に生きる喜びなのです。神の国において、聖霊によって、はじめて、他の人に対して心を開き、その人のことを、愛をもって考えることができるのです。
23節の「しかし、疑いながら食べる人は、罪に定められます。信仰に基づいていないからです。信仰に基づいていないことはすべて、罪なのです」の最後のことばは大切です。「疑う」ということは、信仰の確信を持っていないということであり、そのような不信仰な行為は罪であって、それ自体で髪の裁きの対象となる(ヤコブ4:17)。「信仰による」とは、「信仰から」(直訳)出るということであり、信仰の源である神自身に由来することなのです。キリスト者の交わりにおいて大事なことは、異なった意見を持つ物であっても共にキリストによって救われたきょうだいたちであり、お互いを認め、受容し、互いの向上に役立つことを追い求めるという方向を持つことであり、それによって共に生きることに他ならない。愛が必要です。教会は愛によってのみ建てられる。
主イエス・キリストはクリスマスにお生まれになって、そして、やがて十字架につけられて殺されました。それは、私と一緒に生きているこの人のためだ、あの人のためだと信じる。その信仰を神のみまえにおき、誰にも依存しないで貫く。そこに独善の信仰など生まれようがありません。十字架が輝いている、そこで真の愛に生きたいと思います。