カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 解放

    2024年8月18日
    出エジプト記34:4~9、ヨハネ8:1~11
    関 伸子牧師

     朝早くイエスが神殿境内で民衆に教えていたとき、律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえた女性をイエスのもとに引き立て、真ん中に立たせます。

     もしイエスがこの女性に石殺しを命ずるなら、ローマの禁令を犯したかどでイエスをローマに訴えることができるし、逆にこの女性を大目に見て釈放するなら、律法違反と騒ぎたてることもできます。どちらにしても、イエスを訴えられるのですから、この事件は彼らにとって絶好の機会なのです。

     3節から6節前半にイエスを陥れようとする律法学者・ファリサイ派の人々のたくらみが書かれ、それに対応する9節前半にはそのたくらみの失敗が述べられています。気になる表現は6節後半と8節に二度繰り返されます。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた」。イエスのこの仕草は何を意味するのでしょう。いろいろな解釈があるようです。しかし、ファリサイ派の人々、律法学者を退かせた直接の原因は、9節の主イエスの言葉、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った」からわかるように、7節のイエスの言葉を聞いたことです。この言葉が彼らに自分の罪を思い起こさせ、イエスをわなから抜け出させたのです。

     そこに残されたのは主イエスおひとりです。イエスは罪を犯した女に石を投げることのできる唯一の人です。しかし、イエスは「誰もあなたの罪に定めなかったのか」と語りかけ、罪の赦しを宣言します。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」、と。人を救う方は、人間の弱さに同情できない方ではありません。イエスのこの言葉は自分も罪人の一人だと言っておられるのではく、父なる神の赦しの愛を本当に知るお方であるイエスの権威による自由な決断の言葉なのです。

     昨年から、小会のはじめ30分、『恵みの契約』を輪読しています。8月11日は、第5章キリストにおける神の契約、を読みました。その中にこのような文章がありました。「イエスは律法の書の教えに直接ふれるときでさえ、その教えを恵みの契約の文脈に位置づけて語った。しばしば彼は、神の愛、憐れみ、そして憐れみふかい正義を強調する預言者の書の光のもとに律法の書を解釈したのである。イエスはトーラーを、一つ一つが同程度の重要性をもつ戒律をまとめた『規律集』とは考えず、律法の書の教えの本質を捉え、それを申命記6章5節とレビ記19章8節からの引用で要約した。これらの聖書箇所は、愛こそが恵みの契約にふさわしいとして、愛にもとづく視点から神と人との関係、さらに人と人との関係を表現している。・・・・・・イエスの考えによれば、トーラーの戒めを字義通りに適用して姦淫の罪を犯した女性を石打の死刑にするよりも、むしろ彼女の罪を赦すことこそ律法を成就することであった」(143~144頁)。赦しには、罪を犯した人への信頼が必要です。愛がなければ、赦しはない。姦淫の女への主イエスの行動は、イエスの思いやりと慈しみ、他者を信頼する力があります。

     マルチン・ルーサー・キング牧師が黒人解放運動の中で絶えず言ったことは、「白人を私たちは憎んでいないのだ。白人のみなさん、私たちはあなたがたを愛しているのです。どうかこの愛を受けとってください」でした。どんなにむごいことをされても、白人を憎んではいけない、憎んだら負けだと、どこまでも愛していった。それがキング牧師の解放運動でした。無条件の赦しの愛の中に、もうそのようなことをしないようにという正しい、自由な生き方が示されているのです。ここに解放された者の生き方があります。

     「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」(11節)というお言葉は、ただわたしはあなたを審かないですませる、という意味ではありません。ある人がこのところについてこういう言葉を語っています。「女にとって主イエスがいてくださったということはどんなにさいわいなことであったか。主イエスこそ真実に審くことができる方であった。その〈審く方〉がそこにいてくださらなかったならば、女にとって救いの道は完全に閉ざされたままであったはずであります。なぜかと言うならば、〈真実に審く〉ことができる方こそ〈真実に赦す〉ことができるからであります。赦しは審きを無視することによって成り立つのではなく、審きが貫徹されたところで、初めて赦しが意味を持ってくるのであります。」真実に審く方の前で、真実に審く方の言葉によって、この女は初めて赦しの中に立つのです。

     しかもこの赦しは実に激しい力を持っています。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」。あなたはもう罪を犯すことはできなくなった、というほどの意味です。この女はやがて、事もあろうに、このイエスがまるで自分の身代わりのように殺されたことを知ったでしょう。慄然としたと思います。ああ、主イエスが私を赦すと言われたのは、主イエスが私を解き放つと言われたのは、このことを意味していたのかと思ったに違いないと思います。

     私たちもまた、この物語によって生かされると同時に、また繰り返してこの物語が語る種イエスのもとに帰って来ざるを得ない。私たちの新しく生きる道は、「罪を犯すな」という言葉によって突き動かされて生きる道なのです。このような言葉が不思議な道を歩みながら私たちのところまで届いたことに、神の恵みの摂理を思わずにおれません。お祈りをいたします。