神への道を知る
2025年5月18日
サムエル記下41:17~27、ヨハネによる福音書14:1~11
関 伸子_牧師
ヨハネによる福音書第14章から17章は最後の晩餐の席で語られた主イエスの弟子たちへの告別説教です。この説教の前後に見落とせない表現があります。第13章30節の「夜であった」と第18章3節の「松明や灯や武器を手にしていた」です。この表現は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)にはなく、ヨハネだけが伝えています。ヨハネの意図がどこにあるかと言えば、告別説教が語られる家の外を闇が支配していたことを想起させるためでしょう。光として世に来られた主イエスが民衆の前から身をかくされた後、外は闇となりますが、イエスが座る食卓は光に満ちています。
その光である主イエスが弟子たちに別れを告げます。弟子たちの心は騒いでいました。重苦しい不安と恐れが彼らの内に広がっていました。間もなく直面する十字架の出来事は、弟子たちに大きな衝撃を与えるに違いありません。そのような弟子たちの心境を気遣ったイエスは、彼らを励まし、力づけるために語り始めます。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」(14:1a)。「心を騒がせる(タラッソー)」と訳した語は、イエスに関して「奮い立たせる(タラッソー)」と訳した語と原語では同じものです。「心を騒がせるな」という言葉が出て来るこの動揺は別離が生み出すただの感傷ではありません。そうではなく、イエスの闘いを受け継がなければならない弟子たちの身震いです。闇の攻撃は、光りを飲み込むほどにすさましいのです。
イエスもこの世の強力な抵抗にあい、死を覚悟した時、「今、私は心騒ぐ」(12:27a)と神に訴えました。引き継がなければならない戦いを前に、弟子たちが動揺するのも当然です。私たちも弟子たちと同じように、心が騒ぎ、恐れ、自分の生きる基盤を失ってしまうほどに、イエスに近く歩んでいるかどうかが問われます。私たちは自分の安定した生活を構えて、そこから一歩も出ない範囲において、イエスに従っているのではないでしょうか。
続けてイエスはこう語ります。「私の父の家には住いがたくさんある」(ヨハネ14:2b)。私たちはこの地上に生きる限り、多かれ少なかれ自分たちの住むところのことを心配します。多くの人々は家賃やローンを払い続けながら、やっと小さな住まいを確保します。そして晩年になってもなおどこに住むかということは深刻な問題として私たちにのしかかります。しかし、どうやら天国には住むべき場所がたくさんあるようです。そして、主イエスと出会った人たちが世界中からここにやってきます。
「もしなければ、私がこれから行って、あなた方のために場所を準備する」、と言ってくださるイエス。そこで私たちは主に守られて、深い平安と慰めを得、孤独から解放されてすべての人々と共に永遠の喜びの内に生きるものとなるでしょう。
続けて「私を信じなさい」と主イエスは弟子たちに教えます。この世と戦い、その手ごわさを知り抜いたイエスが「信じなさい」と戒めます。イエスの勧める「信じる」は、温室の中で語られる信仰ではなく、この世の挑戦に立ち向かう信仰です。
トマスは言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が分かるのでしょう」(5節b)。トマスはイエスの12弟子の一人です。トマスは弟子たちの無理解ぶりを代表しています。しかし、このトマスの率直な質問によって、イエスの口から神のことや将来起こるはずのことが語られました。この後フィリポがやはり、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」とお願いしました。フィリポの願いについても、「この愚かな願い」と書き記す人がいます。しかし、私はふとトマスに、フィリポに同情し始めました。というよりも、このトマスの問いもフィリポの願っていることも私たちの中にある時ではないか、私たちの願いではないかと思わずにおられないのです。そうであれば、彼らの愚かさは、私たちの愚かさです。
そのフィリポに対して主イエスははっきり言われます。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(6節b)。1節から14節までのみ言葉の内でおそらく最もよく知られているのはこの6節のみ言葉です。イエスは神を表す「真理」、神の与える「いのち」ですから、神を求める者の「道」となります。その「道」を歩む者は「真理」と「いのち」に至る。
弟子たちが信じるべきもうひとつのことは、「私が父の家におり、父が私の家におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」ということです。第10章38節でも、「私を信じなくても、(私が行っている)その業を信じなさい」と語られました。サマリアの女に生きた水を与え、生まれつき目の見えない人に光を与え、葬られたラザロに命を与えたイエスの不思議な業は、すべてイエスのうちにあって、イエスとともに働く神の力です。明らかにこの福音書は、教会に生きている者たちは、既に戻って来てくださった主イエスと一緒に生きていると信じました。主イエスは「霊」において戻って来てくださいます。
「私は道である」。これは主イエスが、私たちにこの道をイエスに従って歩むようにと呼びかける招きの言葉でもあります。この一は決して平坦で楽なものではありません。茨の多い、狭い道であり、そこには多くの困難が待ち構えているに違いありません。しかし、「道」の終わりに神が立っておられます。私たちの住まいが用意され、生きる喜びを心から享受できる時が待っています。しかし、その喜びはゴールに至って初めて味わうのではありません。イエスを知った今、その前触れを見ているのです。祈ります。