呪いを断ち切る祝福とは
2026年1月18日
創世記12章1~4節、ローマ4:1~3
内田 弥生_中会神学生
創世記第11章32節「テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。」の最後の節と、本日の12章1節には大きな裂け目があるのです。
人類とイスラエルの歴史、すなわち、イスラエルの呪いを受けた人類の歴史を背負っていますが、神の祝福はその呪いを断ち切り、アブラムに新しい道を開いてくださいます。
12章のこの始まり「主は、アブラムに言われた。」この言葉によりすべての新しい歴史が始まるのです。主の言葉の力によって新しい歴史がはじまる、力強い章となっています。
12章1節。「主は、アブラムに言われた。『あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ私が示す地に行きなさい。』」主の言葉は続きます。「私はあなたを大いなる国民とし、祝福しあなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福しあなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族はあなたによって祝福される。」
アブラムにとっては、起死回生だと思われますか?安定した生活を捨て、住み慣れた土地を離れて、親族と別れて、神の選びとは、どのようなものかは知りません。が、一つ言えるのは、アブラムが血気盛んな、希望に燃えているときに主が語りかけたのではないということです。
もう年を重ね、子もない、そのようなアブラムにとって希望のない時に主の呼びかけはおとずれます。神は準備が整った人ではなく、行き詰まった人を呼ばれるということなのです。
それはまた、神が語られても、聞く耳をもたなければ聞くことのない声でもあります。暗闇にある時に、私たちは神の声を聞くのです。喜んで、希望に燃えているときに神の声を聞くのではないということです。そういう時には神の声は聞こえないのです。神の声を聞くということは、神と出会うということです。
むしろ、どんなに暗闇でも、そこに留まっていたほうが、今までのやり方でいけばどうにかなるし、きっと何とかなると思っているかもしれません。しかし、主なる神は、今いる場所から、にぎりしめている大切なものを手放して私についてきなさいと言われるお方なのです。イエス様がガリラヤ湖のほとりで、ペトロやアンデレを弟子にされたときのようにです。
私たちは、神の声を聞くことなしに、ここに集められることはなかったでしょう。なぜ、このような私に会いにきてくださったのか、取るに足らない者であるのに。しかし、そうであるからこそ、力強い言葉をかけて下さるのが主です。呼びかけは、説明不能な確信として来るということです。その確信に導かれて私たちは教会に集められました。
神様は、日常の生活の中で招く方です。この場に来てくださる。生活のただ中に呼びかけてくださる方なのです。神の呼びかけは、決して良いときに与えられるわけではありません。死んだような者に呼びかけ生き返らせてくださる。
ただ従うしかないと思う。いえ、従いたいと思う。それが信仰、神を信じるということでしょうか。しかし、私たちは揺れ動いてしまいます。だからこそイエス・キリストは弱くされて罪の中に、人間の中にお生まれになったのだと思うのです。神様が私たちを共同体である教会へまねいてくださり、神を信じるという信仰を、しるしとして私たちに与えてくださる。私たちは自分の力で神を信じるという道筋はないように思います。神が呼びかけてくださり、初めて信仰へと導かれる。アブラムもおなじなったのではないでしょうか。
「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出ていくように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出ていきました」(ヘブライ11:8)。このような、まだ知らない土地、知らない人達と出会うであろう過酷な旅立ちを、聖書は「祝福」と記します。
12章の書き出しから「祝福」が続きます。「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、祝福の基とし、あなたを祝福する人を私は祝福する。地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される。」この神の語りかけは、命令であると同時に、約束であり、召喚であり、保証である。とある神学者は言います。そして、この神の語り掛け、呼びかけは、これまでどのような応答をもなし得なかった人々を、誠実な応答へともたらすというのです。
たとえ私が行くことは難しいと思っても、行くことのできるようにして下さるのは神です。私たちのこの応答は、理解ではなく従順であるということなのです。
祝福を受ける者は、主の命令に従う者であり、呪われる者は主に反する者です。アブラムはこの祝福の約束を受け、与えられた信仰によりその道を歩んだのです。
主を信頼し、主に依り頼む者に、主がしてくださいます。アブラムの主を呼ぶ声を私たちも聞くのです。そして、私たちも主の名を呼び続ける者であるのです。礼拝において、祈りにおいて、その声を私たちも聞き、そして主の名を呼ぶのです。
主の名を呼ぶことは、充実した賛美でもあります。
アブラムは、その希望のないようなその人生の後半に「私が示す地に行きなさい」その声を聞いたのです。そして従いました。アブラムはまさにこの人生の後半から死んだような人生から、新しい人生へと生かされたのではないでしょうか。神に祝福されるという人生へ、です。神と出会うということです。神の中に組み込まれるという義を経験するのです。神により頼み歩む、それが信仰と呼ばれる与えられた印です。