カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 平安のうちに遣わされる

    2026年4月12日
    詩編145:1~13、ヨハネ20:19~23        
    関 伸子_牧師

     「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた」(19節)。ヨハネによる福音書第20章の出来事は、すべて同じ「週の初めの日」に起こっています。週の初めの日、弟子たちはユダヤ人を畏れ、戸を閉ざしています。イエスの次は自分たちが捕らえられて殺されると思っていたのでしょう。「自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた」と、何の理由も述べずにただ戸が閉ざされていた事実だけを述べています。「戸」は複数形で書かれており、彼らが閉ざしているのは家の戸であると同時に、心の「戸」だとも言えます。この当時は、家に鍵をかけないほうが多かったようです。

     そこへ主イエスが来られます。恐れが弟子たちの心を閉ざし、鍵までかけているのに、それを越えて入ってこられるのです。イエスはそのただ中に来られて彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエス・キリストがどのように入ってこられたか、それが一体どういう現象であったかということはわかりません。わたしたちにとってはとても不思議な現象です。

     「そういって、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。復活されたイエスのからだは手とわき腹に十字架の傷跡のあるからだでしたが、閉じられた部屋に自由に出入りできるからだでもありました。まず両手とわき腹を示して、ご自分が十字架にかけられたあのイエス自身であることを示します。それを見て、恐れから解放されて喜んだ弟子たちに、もう一度「あなたがたに平和があるように」と言ってから、彼らに息を吹きかけて権能を授けます。

     この喜びは、彼ら自身が、自分を閉じ込めていた罪の支配、死の支配、悪魔の支配の中から解放されて、新しい命に生き始めるようになった喜びでもあります。もはやユダヤ人を恐れて、隠れることもしません。このはじけるような喜びに重ね合わせるようにして、主イエスは、再び言われます。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(21、22節)。これは日常的な挨拶に留まらず、それを超えた意味を持っています。その「平和」は、イエスが吹きかける息によって弟子たちに新しい命として贈られます。復活のイエスが呼びかける平和は、弟子たちのあり方を根底から変化させ、彼らはこの世においてイエスの使命に参与する者となります。それはまさに新しい創造なのです。「お遣わしになった」という動詞は現在完了で書かれています。つまり、父がイエスを遣わしたのは過去ですけれども、今もなお継続しているのです。そのイエスの任務が弟子たちに分け与えられます。その任務は、イエスから与えられた平和、真の平和をこの世に伝えることです。

     「息を吹きかけた」。ヘブライ語でもギリシア語でも同じことですが、「息」、「風」、あるいは「空気」、そして「霊」また「いのち」と訳すことが出来る言葉です。そのすべてを、たったひとつの言葉で言い表す。それはよく分かることで、人が息をしているときにはいのちがあり、息が絶えると死ぬ。その息は口から出る。それはちょうど、わたしたちの回りに吹いている風と同じようなもの、わたしたちの周りに漂っている空気と同じような、目には見えないものだけれども、動いており、それはわたしたちにも分かるし、それがわたしたちをも生かす。

     この霊は弟子たちを新たに創造しなおす霊です。神が土の塵で人を造り、いのちの息をその鼻に吹き込まれると、人は生きる者となりました(創世記2:7)。土くれ、アダマとヘブライ語で呼ばれるものから、人間、アダムをお造りになった、しかしそれはただ土をこねてお創りになっただけではなくて、ご自分のいのちの息を神が吹き込んでくださったことによります。これは、もちろんひとつの神話的な表現ですけれども、ここで見事に言い表されている信仰は、わたしたちは神のいのちを宿すことによって人として生きているということです。わたしたちはそれほどに尊いいのちを生きています。

     弟子たちは復活の主イエスによっていのちの霊を吹きこまれ、新しく造られた者となったのです。これは、エゼキエルがたくさんの死に枯れた骨のある谷をみたときと同じ情景でした。同時に、エゼキエル書第36章25節から27節に預言された、人を罪から清める霊でもあります。

     主イエスは弟子たちが宣教するにあたって一つの権能を与えられました。「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。弟子たちのわざに続く主イエスのいのちの息吹きに触れて生きる教会がすることは、ただ愛のわざというのに留まりません。その中核をなすものは〈罪の赦し〉です。お互いがお互いの罪のために祈ることができる。その祈りは必ず聞き届けられる。だから罪の赦しはどこででも起こる。教会の群れがある限り、どこででも起こるのです。

     新しい命にあずかった人間は、じっとしていることができません。もはや鍵をかけて家に閉じこもっていることはできません。この世へと押し出されます。主イエスは、弟子たちを祝福して送り出されたように、私たちをも祝福して、この世へと送り出してくださいます。不安があり、罪もある。しかし、その罪も主が担い、お赦しになられる。その恵みをわたしたちは喜んで受け止め、またそのことを告げていきたいと思います。お祈りをいたします。