恐れることはない
2018年11月18日
イザヤ書41章8節~16節、ルカ福音書5章1節~11節
荒瀬 正彦牧師(日本基督教団隠退牧師)
多くの人は貧しかろうと金持ちだろうと、共通した一つの飢え渇き、一つの貧しさを持っている。「何のために自分は生きているのか」。自分の存在に深い問いかけを向けるとき、私たちは自分が「生甲斐」に貧しく、「生きる目的」に飢え渇いていることに気づかされる。多くの場合、人は安直に目先の答えを求め、一本のワラを掴んで安心してしまう。
シモン・ペトロもそういう人間の一人だった。多くの人がイエス様の福音の言葉を聞こうと集まっているのに、彼はそれに背を向けて網を繕っていた。そんなシモンにイエス様の呼び掛けがあった。
「沖に漕ぎ出して網を下ろし漁をしなさい」。
彼は昨夜来の不漁の経験から「それは無駄でしょう」と言いたかったが、その言葉を呑み込んで「お言葉ですから」と沖に向かって漕ぎ出し網を下ろした。それは初めてイエス様の呼び掛けに応えたことだった。それはイエス様に従うという新しい歩み出しであった。ここに出会いが起こった。イエス様が差し出した手にシモンが「タッチ」と応えていったところから、神との出会いが生まれたのである。
ところが獲れる筈もない時と所で網が破れるほどの大漁となった。奇跡が起こった。が、これは「出会いの出来事」であって、大漁は「出会いのしるし」でしかない。シモンは「主よ、私から離れて下さい」と言ってひれ伏した。彼はイエス様が自分に愛の眼差しを注いでいることに気づいたのであった。同時に彼は自分の弱さ、醜さに気づかされたのだった。そして思わず「私は罪深い者です」と告白していた。
神の愛に気づいたとき、私たちは罪を知らされる。罪とは、神との関係を否定すること、神の呼びかけを無視すること。そんな罪人の自分が神の愛と聖さに触れたとき、自分の汚れと惨めさを知らされ「私を離れて下さい」という言葉しかない。
自分の弱いところ、ダメなところ、悪いところが全部知られていると思った時「恐れ」を知るのである。
シモン・ペトロは神の前に恐れたのだった。そのシモンに、イエス様は「恐れることはない」と言われた。
イザヤ書41章8節~15節でも「恐れるな」という神様の言葉が響いている。
「恐れる」という言葉には「逃げ出す」という意味がある。だから「恐れるな」という言葉は「逃げ出すな。逃げてはいけない」という呼びかけである。何から「逃げてはいけない」と言われるのか。それは、私たちが日々の生活で直面している現実よりも、もっと大切な現実があるではないか。その根源的な現実をしっかりと見つめ、その現実から逃げ出してはいけないと神は言われているのである。
その現実とは「神、共に居ます」という現実。「あなたを支え、あなたを助ける」と語られている現実。この神の救いの手、愛の御手から「逃げ出してはいけない」。
「あなたのあるがままを受け入れる。いつもあなたと共にいる」、この約束の言葉が出会いの言葉である。だからキリストの福音は出会いの言葉である。
この言葉は私たちにも呼びかけられている。
神様の呼びかけを恐れてはいけない。「神、共に居ます」という現実から逃げ出してはいけない。神様の差し伸べる手にパチンとタッチするのである。その時、私たちは「本当の生甲斐、生きる目的」に目を開かれるのである。