カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 平安のうちに遣わされる

    2022年4月24日
    詩編145:1~13、ヨハネによる福音書20:19~31
    関 伸子牧師

     日曜日の朝、マグダラのマリアに顕れた主イエスは、その夕方には他の弟子たち、12弟子とその他の弟子に自らを現わされました。弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた」と、ここで弟子たちが恐れていたことが強調されています。弟子たちがユダヤ人たちを恐れていたのは、彼らがイエスの命を狙っていて、実際にローマ帝国の権威の元で処刑へと導いたからです。そのために彼らが一切の戸を固く閉じていたと記されています。人間の恐れというのは、きりがないことを思わされます。

     弟子たちが集まっていたところは、イエスが彼らと共に最後の食事をした家だと考えられます。その時、主イエスは入って来て、「あなたがたに平和があるように」と言われました。ヨハネはこのことで何を言いたいのでしょう。「平和があるように」というのはユダヤ人が交わす挨拶、「シャローム(平和)」、つまり、不安の反対の平安に他ありません。復活の主は、不安のまっただ中にある弟子たちのなかに立って、平和を告げます。

     しかし、復活は、また、つまずきでもあります。なぜなら、死んだ人間が生き返る、蘇生するということはあり得ないからです。弟子たちの真ん中にいるのは十字架上で処刑されたイエスです。主の両手首には十字架にくぎづけにされた時の後があり、わき腹にはやりで刺された時の跡があります。確かに今、弟子たちの真ん中にいるのは十字架上で処刑されたイエスであり、その死を克服した点でイエスは主なのです。

     「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と、主イエスは、人の罪を左右する権限を弟子たちに与えたのですから、それは、大変なことに違いありません。主イエスは、聖霊と深く一致しておられ、言葉によって霊をお与えになる方です。私たちが赦すことができるとすれば、それはイエスによって聖霊を授けられたからです。

     さて、12弟子の中でトマスだけは、主の復活の日に他の弟子たちと共にいませんでした。ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた弟子たちとは別行動をとっていたのでしょうか。トマスは、英雄的にイエスと共に死のうと弟子たちに提案したほどの人です。また、イエスがこの世を去って、父のもとへ行くと言われた意味が分からず、愚問をした結果、イエスの有名な言葉、「私が道であり、真理であり、命なのです」という言葉を引き出した人でもあります(ヨハネ14:5,6)。

     イエスにお会いした他の弟子たちはトマスに、「私たちは主を見た」と告げました。しかし、トマスは、自分の目や指で確認しなければ「私は決して信じない」(25節)と宣言しました。トマスの疑いは、奇跡を見なければ信じない人々の態度を代表しています。

     8日の後、弟子たちはまた家のなかにいて、トマスも一緒でした。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。それから、トマスに言われたのです。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)。イエスはご自分の傷跡をトマスに触れさせています。それは復活したご自分が単なる霊ではなく、肉体を持っていることを示すためです。トマスに対して深い哀れみをもって実際にそのことを見せ、トマスに信じることを勧めます。

     復活の主に出会い、「信じる者になりなさい」という言葉を聞いて、トマスは、「私の主、私の神よ」(28節)と信仰告白をしました。イエスが復活された事実を確信し、イエスを主として、神として告白する彼の信仰は主の憐れみによってここに確立しました。

     復活の主の言葉は、疑う者に向かいます。イエスは、更にトマスに語ります。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(29節)。「見ることが信じること」と受け取れられることもありますが、見ることに囚われると、信仰が固定化され制約されていくのです。「信じる」とは、「信頼すること」であり、そこから理解がはじまります。人間関係も同じでしょう。信頼して関わることによって相手の理解が深まるのです。「信仰は、見ることの出来るものに注目し、見ることの出来るものによって確信するということではない。信仰とは神の言葉にのみ注目し、神の言葉によって確信することである」(D.ボンヘッファー)。
      
     復活の主は、また派遣の主でもあります。どの福音書を読んでも、復活の主と派遣の命令が結びついています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。これがそのご命令です。永遠の希望の主が来て、私たちと共にいます。平安のうちにこの世へと遣わされていきましょう。祈ります。