神の言葉をたたえる
2022年7月17日
エレミヤ23:23~32、ガラテヤ5:2~11
関 伸子牧師
パウロはガラテヤの教会の信徒たちに語ります。「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません」。ここで、自由を得させるとは、何をしてもかまわないという意味ではなく、不安からの自由と解釈してもよいと思います。私たちはいろいろな不安を持っています。そういう不安から自由にされるということです。自由とは、人間がほんとうに人間らしくあることです。自分の本当の姿が発揮されることです。したがって、そのために「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました」ということを、はっきりと心に刻まなければなりません。私たちの自由は、キリストと結びついているからです。
パウロによれば、イエス・キリストに対する信仰においてではなく、律法を守ることによって神の前に義とされようとする人々は、キリストを必要としないために、キリストの宿している救いの効力を受けることなく、その無償の救いという恵みから引き離されて、言わば律法の中に陥り、滅び行くのみなのです。しかし、洗礼はキリストにあって自分に死んで、神に生きるしるしです。それは男子だけではなく、性別を越えて、すべての人を目指します。それは民族の枠を越えて、全人類におよびます。
パウロは続けて、「私たちは、霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます。キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです」(5、6節)と語り、律法を守ることによって義とされようとする人々とは対照的に、律法を実現したイエス・キリストに対する信仰によって義とされる希望を抱き続けています。
信仰生活の危険は、自分が大きく膨れることにほかなりません。「僅かなパン種が生地全体を膨らませるのです」(9節)。かつて主イエスが弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と語られたことを想起させます。ファリサイ派の人々は、律法を形式的に遵守しようとする律法主義者で、彼らは偽善に満ちていました。偽善とは自分を正しく見せることであり、具体的にはファリサイ派の人々のように、イエスを食事に招き、「先生」と呼びながらも、イエスをひどく恨むような態度のことです。ここでパウロは、ガラテヤ人たちの中の誤った教えが広がり、他の人々に対しても悪影響を与えることを戒めています。
パウロは、「割礼」を否定しますが、「十字架のつまずき」は否定しません。十字架のキリストを唯一の救済手段とすることが福音なのですから。「つまずき(スカンダロン)」とは、元々は敵のために仕掛けたわなを指し、人を滅びに導くものの象徴であり、救いの対義語でもあります。そして、十字架上で滅ぼされた者が救い主であったということは極めて想像しにくいことであり、多くの人々にとって「つまずき」ですが、誰でもまず十字架上に掛けられて滅ぼされたイエスを受け入れないなら、その滅びから生き返らされた救い主イエスをも受け入れることがでない。それゆえに自らが滅びに陥るだけなのです。
キリストの十字架を信じ抜くということは、私たちの足場を完全に取り払われることです。名誉も地位も賢さも何もなくなる。キリストの十字架だけです。それは決して気分のよいことではありません。私たちにとってむしろ気分のよいことは、キリストと律法とを両方使い分けることでしょう。しかし、このキリストとおきての両刀遣いの気分のよさから私たちが自由にならなければ、私たちが本当の正義に生きることは困難になります。だからパウロは言うのです。「霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます」と。
その信仰は「愛によって働く信仰」とパウロは語ります。愛もまた私たちの中にはない。人間の手の中にはないのです。愛においてこそ私たちの罪が明らかになります。愛し得ないことこそ、人間の悲惨を最も鮮やかに示したのです。だから、「あなたがたを召し出しておられる方から出たもの」によってこそ、私たちにも愛は可能になるのです。
私たちが愛に生きようとする時に、自分に愛する力があるかないかということを問う必要は全くないのです。神に召されている、その恵みの事実に生きればよいのです。義に生きる望みを与えつつ、私たちを召してくださる神が、必ずまた愛を可能にしてくださることを信じたい。そこには冒険があり、新しいものにふれる喜びに満ちています。私たちもこの召しにあずかっている事実を感謝して受け入れたいと思います。祈ります。