柔らかな心に生きる
2022年8月21日
詩編127:1~5、マルコによる福音書10:13~16
関 伸子牧師
主イエスに手を置いてもらいたいと、幼子たちが連れてこられました。しかし、イエスが疲れておられると推し量ってか、弟子たちはそれをたしなめました。それに対してイエスは非常に憤り、弟子たちを戒め、「だれでも幼子のおうに神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」と言われました。
このことを通して、なにか幼子を神格化するようなところがありますけれども、純真な幼子といっても非常に身勝手な面もあり、素直な反面、頑固なところもあります。それは、だれもが持っている、みにくい面をも備えた人間の姿そのものです。ここで言う幼子とは、決してただ素直な、罪のない者のことではありません。幼児教育実践家のペスタロッチの言葉だったと思いますが、乳飲み子という言葉には、飲み込むこと、受け入れることに、特徴があると言います。すなわちまず受け入れる者という点にこそ、イエスが幼子を引き合いに出されたゆえんがあると思います。神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることはできないのです。
私たちが信仰を考えるとき、入ることができるなら受け入れようという態度があるかもしれません。神の国に入り、もしそこがよかったなら、それを受け入れようという態度です。それに対して、イエスは受け入れることによって入ることができるのだ、と言われました。子どもは、イエスによって人々の真ん中に立たせられる時に、そのままイエスと共に立ち、その後イエスによって抱き寄せられる時に、そのままイエスに身を預けます。
主イエスが「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない」と言われた時、弟子たちが考えていた順序が、彼らの心の中で、音を立てて崩れ去りました。さらに「神の国はこのような者たちのものである」という言葉が、追い打ちをかけました。一番周辺にいたと思っていた者たちが、実は一番主イエスに近い者であることが、明らかになったのです。それは同時に、一番主イエスに近いと思っていた自分たちが、そうではないことが明らかになった時でもありました。「神の国はこのような者たちのものである」と主が言われた時、そこには「あなたがたのものではなく」という意味が言外に含まれていることを、弟子たちは聞き逃さなかったでしょう。このとき弟子たちは、いったい自分たちは主イエスにとってどのような存在であるのかを、考えさせられたにちがいありません。
さらに主イエスは、弟子たちの考えていた順序を崩すような言葉を語られただけではなく、行為をもってそれを示されました。子どもたちを抱き上げて、手を置いて祝福されたのです。ここで「抱き寄せ」というのは、ひとりひとりを抱き寄せたのでしょう。主イエスは、ひとりひとりの子どもたちを抱き寄せて祝福されるという丁寧な扱いをなさったのですが、弟子たちに対しては、ひとりひとりの足を洗うという、それ以上に丁寧なことをしてくださったのです(ヨハネ13:1以下)。つまり、一番遠いところから、主イエスに招かれて一番近いところに呼び寄せられた子どもたちの姿こそ、他でもない弟子たち自身の姿だったのです。それは、このようにして祝福されている子どもたちこそ、あなたがたなのだ、ということを示されたのです。
神の国を受け入れる、とは、一番遠いところから、自分たちを呼び寄せてくださった主イエスを、柔らかな心で受け入れることであり、一番近い者にされた自分自身をも、受け入れることです。そのようにして第4章20節にあるように「御言葉を聞いて受け入れる」のです。「受け入れる」ことと「受け入れられる」ことが大切です。
いよいよ主イエスの伝道旅行は、終わりの地エルサレムに到達しようとしていました。それは、人間のあらゆる罪を自ら一身に引き受けて、私たちのために、父なる神の赦しを乞うためでした。ご自身が死の裁きをうけてまでも私たち人間の罪を赦そうとする、主の愛と恵みをここに思わざるをえません。イエスご自身、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、父なる神の霊が鳩のようにイエスの上に下り、父なる神が「これは私の愛する子。私は彼を喜ぶ」と祈ったように、イエスは子どもたちの上に手を置き、「これは私の愛する子どもたち。私はこの子どもたちを喜ぶ」と祈ったことでしょう。主の贖いととりなしのよって、ここに登場する子どもたちの笑顔は、初めて真の喜びとなる場所を得たのではないでしょうか。主の弟子たち、すなわち、神の子どもとされた者たちは、ただこの感謝と喜びによって、生きるのです。お祈りいたします。