カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 蒔く者に与えられた恵み

    2022年9月25日
    詩編112:1~10、コリント二9:6~15
    関 伸子牧師

     今日は召天者記念礼拝をささげています。今年6月に老衰のため102歳で天に召された川岸三枝子さんの家族葬を、八王子の家族葬専門の場所で行いました。私は三枝子さんと直接お会いしたことはなかったのですけれども、川岸さんご夫妻は、主に豊かなささげものをして生きた方であったと、数人の方が教えてくださいました。残された息子さんもそのことを覚えていました。私は川岸さんの息子さんと話したことがしばらく心に残り、「ささげて生きる」、ということについて思い巡らしていた時に、先ほどお読みした使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙の箇所を示されました。

     コリントの信徒への手紙二第9章6節に有名な、「惜しんで僅かに蒔く者は、わずかに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです」と記されています。惜しみながらまく者は、収穫においても、惜しまれて、十分に得られないということです。「豊かに」の語は、「心をこめて」とも訳せます。「祝福のうちに(すなわち「たっぷりと、ゆたかに」、または、「おうように」)まく者は、また、祝福のうちに(または「思う存分に」)刈り取るであろう」(カルヴァン)。

     祝福する、というのは、どういうことでしょう。その人の幸福を願うということでしょうか。祝福は、実は、神しかできないことです。それならば、どのような心で施しをしたらよいのでしょう。ここには、「惜しむ心でなく、またしいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである」と書いてあります。これは、あらかじめ決めたとおり、ということです。それは、いつも神と接して、造られた心です。神がそういう人を愛するというのは、実は、そのような人こそ、神の愛を感じることができるということではないか。

     施しをするときに、私たちが、いつも感じることは、自分の貧しさです。神はそれをご存じです。したがって、神は、いつも、すべてのことについて、あらゆる恵みを与え、いつでも満ち足りたものとならせ、良いわざが、十分以上にできるようにしてくださるのです。これは私たちが予測していない恵みです。

     これらのことについて、パウロは、旧約聖書の引用によって、それを証ししようとしました。詩編第112編9節からのものです。「貧しい人々には惜しみなく分け与え その正義はいつまでも続く」。この詩は、言うまでもなく、施しを行った人に対する祝福が何であるのか、ということを明らかにしてくれるものであると思います。聖書はこれを大切なこととして記しています。義というのは何でしょう。常識的に、信仰から離れていえば、施しをすれば、それだけ良い事をしたのだから、神の前に、そのことが正しいこととして取り上げられるであろう、ということになります。

     しかし、コリントの信徒への手紙を書いているパウロという人は、人間の行うことによって、人間が、神に対して正しい者とされるなどとは考えていませんでした。それどころか、人間が造り出した義では、救われることがないことを、事ある毎に訴えた人です。その人が、施しぐらいで、人が神に対して、義を得られるなどと考えるはずがありません。パウロが考えている義というのは、神が、キリストの救いによって、人間にお与えくださった義です。

     神がなくてはならぬものを備えてくださるということは、まことに素朴な信仰ではありますが、また、ある意味では、信仰の頂点であると言うこともできるでしょう。ある人はこう言います。「献金は一つの管だと思う。神が多くのものを与えようとされても、細い管ではいただけない。太い管ならば、神はあふれさせてくださる。献金は神の祝福を受ける条件ではなく、神と自分とを連結する管なのである」。確かに、神は喜んで施す人を愛してくださるのであり、それは、額の多少ではなく、喜んでささげるか否かが大事なのです。献金は、あふれるばかりの神の恵みに対する感謝であり、それが何に使われるかは神の御心なのです。

     聖書を読んでいくうちに、パウロは、施しそのものを問題としているのではなくて、施しのことをきっかけとして、信仰を語っていることが分かるのです。すべてのことが、神に対する感謝にいたるということが、明らかにされるのです。しかも、もしそうであるならば、施しの問題だけでなく、あらゆることが、ついには、神への感謝をもって終わるべきものであることを知ることができるのではないでしょうか。先に天に召された方たちが豊かにささげて神の栄光に帰し、今は天国で痛みや苦しみから解放されて平安を得ていることを思い、命ある者として地上を生きる私たちは、心と行いをもって神に仕え、豊かにささげていきたいと思います。お祈りいたします。